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2012年3月11日、私は岩手県大船渡市にいた

2011年3月11日。
私は大阪で高校三年生を終えようとしていた。

神戸大学の前期の合格発表が出て、春から新しい世界に胸を躍らせるそんなふわふわした時期だった。

家族は外出していて、私は一人こたつでテレビを眺めながら、まどろんでいた。天気のいい日だった。

3月11日お昼をまわった時、
大きな地震が東北の方で発生したとニュースが飛び込んできた。
「いつもの感じか。」
地震速報に慣れ切っていた私は、この日が人々にとって忘れられない大災害の日になろうとは想像ができなかった。

「東京の方も揺れている」
「千葉の工場から火の手が上がっている」
「高い津波が発生したようだ」
ニュースキャスターたちは冷静を装うが、焦りの色はその顔から読み取ることができた。

津波が畑を生き物のように覆いつくす中継映像が飛び込んできた。
「津波が到達しようとしているところに人がいるよ。」
「車が、まだ走っているんだよ。」
そんな言葉が頭の中でぐるぐると繰り返されていた。

画面から伝えられる映像が実際にこの国で起こっていることだとは、想像することができなかった。


一年後。
私は岩手県大船渡市にいた。
大学一回生。

大学からはたくさんのボランティア団体がこの一年、何度も被災地に入っていた。
「震災から一年後の慰霊祭のボランティアを募集しています」
そんなビラを受け取り、何かしなければいけないという思いに駆られた。

神戸は特に阪神淡路大震災で全国の人々から助けてもらったという思いが強い地域なので
東北の震災は他人事ではない人が多かった気がする。

新聞で見る写真でしか現地のことを知らなった。
私たちが年を重ねたときに、次の世代にちゃんと伝えるためにきちんと見る必要があるのではないか?
私が被災地に入ろうと思った動機だった。

神戸から長時間のバスに揺られ、被災地に入った。
仙台でほかの大学のボランティア団体と合流した。

気仙沼の街に乗り込んだ大型の船を見た。
最後まで住民に避難を呼びかけつづけた南三陸町の防災対策庁舎が赤い鉄骨だけを残し、静かにたたずんでいた。周りには何もなかった。
たくさんお供えされた花が、春を予感させる風に揺れていた。

現地は、瓦礫がまとめられているといった状況だった。
津波が到達したラインで山の木々が枯れていた。
町の人の足だった鉄道は線路が途絶え、止まっていた。

夜になると町に灯りがないので、とても暗かった。
大船渡の湾の向こうで光る工場の灯りがぽつぽつと。
その小さな灯りが、気持ちの救いだった。
海は穏やかだった。
とても静かだった。

被災地には各エリアに仮設住宅がたくさん建てられており、訪問したことを一軒一軒伝えに回ると
「お茶っこしていきんさい!」と元気なおばあちゃんたちが迎えてくれた。
コーヒーやたくさんのビスケットを出してくれて、どこから来たの?と聞いてくれた。
みなさんとても明るくて、驚いたのを覚えている。
一軒一軒で食べさせてくれるので、おなかがいっぱいになった。
仮設住宅の中は、それぞれに違っていて、ここで長く過ごされていることを物語っていた。

震災から1年後の3月11日は、お昼から慰霊祭が行われ
夜は「報恩謝徳」と描かれたたくさんの灯篭にあかりをともした。
これは神戸で学生たちが作って現地まで持ってきたものだった。
私は風で消えてしまうろうそくに何度も火をともした。

それくらいしか、私たちにはできなかった。


現地に入ってから仲良くなった年配の女性がいた。
何度もお話をする中でかわいがってもらい、拠点にしていた宿に「○○ちゃんにお漬物持ってきたよ~」と届けてくれたり。
明るい方だった。
慰霊祭の日、私はその女性の横にいた。
参列者の列には参加せず、遠くに立っていた。
黙祷の合図の鐘がならされた時、彼女は静かに涙を流していた。
私の手を握り、少し震えていた。
私は握り返すことしかできなかった。

被災地の人々の笑顔の裏にある壮絶な体験を、現地に入っても私は想像することしかできなかった。
言葉をかけることができなかった。安直な言葉を発することは許されないと思った。


ここまで読んでくれた方に、畠山美由紀さんの「わが美しき故郷よ」の朗読に耳を傾けてほしいと思います。


2022年9月
10年ぶりに東北に足を踏み入れます。
宮城県石巻市で行われているREBORN ART FESTIVALに取材に入ります。

自分が何を感じたのか、また言葉を綴ることができたら嬉しいです。

最後まで読んでくれて、ありがとう。


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