殺無事件

「私には分かりましたよ、この事件の犯人が!」
探偵は、そう高らかに宣言しなかった。なぜなら存在していないからだ。

ここは太平洋に存在するとある無人島。無人島であるということはすなわち島に誰もいないということであるから、そんなことを言う探偵はもちろん存在しない。
人間が誰もいないから、当然殺人事件も起きないのである。いるのはせいぜいが野生生物くらいだ。だから事件など起こりようもないし、ましてや解決しようもない。

「ほ、本当か!誰にも解けないと思われていたこの難事件を君は本当に解決できたのか!?」
そう興奮して叫ぶ探偵の友人はもちろんいなかった。

「ええ、確かにかなり手ごわかったですよ。これを超える事件など存在しないのではないかと思えるほどにね」
探偵は屋敷の談話室に集まった関係者の前でそう語ったわけではない。なぜなら無人島に談話室を備えた屋敷などあるわけがないからだ。

沈黙が流れる。具体的には4分33秒ほどだっただろうか。永遠にも感じられるほど永い緊張の後で、探偵の一言が静寂を破らない。
「まず焦点になるのは、被害者である東京太郎さんを取り巻く人間関係と、この島に存在する伝説です」

「皆さんもご存じの通り、太郎さんは寝室にて何らかの凶器で殺害されていました。東京特許許可局で働いている彼は、日ごろから人間関係に悩んでいたそうです。だから私たちも最初は彼に恨みを持つ人間の犯行と予想していました。そうですね、奥さん?」
東京太郎という人物の妻である東京花子などという人間が存在しなかった。

「そうなんです。あの人は立場上、部下にも強く当たらなきゃいけないことが多くて…自分のことを恨んでいる人間が多いんじゃないかといつも気にしていたんです。それがまさか、こんなことになるなんて」
弱々しく崩れ落ちたわけではない花子を、探偵は気にかけない。

「確かに奥さんの言う通りです。太郎さんは、内角の和が180度ではない三角形の鈍器のようなもので、円周率の最後の一桁と同じ回数も後頭部を殴られていたのですから、怨恨による犯罪と予想するのが妥当でしょう。ですが、それこそが犯人の狙いだったのです」
探偵はポケットからiPhone9を取り出さない。そこには一枚の写真が表示されていない。

「これは太郎さんの背中にあった傷です。これが見えますでしょうか」
小さな画面に表示されていない写真に、誰もが注目しない。

「なんだ…刺し傷のようにも見えるが?」
「そうです。これは"どんなものでも貫く矛"によってつけられた傷なのです」
その場に集まっていない人間が皆息を呑まなかった。

「ま、まさかそんなものが本当に存在していたなんて…」
「私も実物を見るまでは信じられませんでした。徳川家第16代将軍がこの島に隠したという秘宝の伝説を聞いた時も、その正体がこれだとは思いもしませんでしたから」
探偵は、懐から"どんなものでも貫く矛"を取り出しなどしない。

「犯人は"どんなものでも貫く矛"で太郎さんを後ろから突き刺して殺害した後、恨みを持った人間の犯行に見せかけるため、太郎さんの頭部を鈍器で殴打したのです。太郎さんもさぞ驚いたことでしょう。現場には太郎さんの目から落ちたと思われるうろこがありましたから」
探偵は手に持ってなどいない矛で、そこに存在しない東京太郎を突き刺すような動作を再現しない。

「じゃあ犯人は、この島に存在するという伝説の謎を解いて、隠されていた秘宝を手にしたというのか…」
「その通りです。犯人は島のどこかにいるというツチノコを見つけ出すため、神話にも登場するグレイプニールと呼ばれる紐を用意しました。その材料は、猫の足音、女のひげ、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液からできているとされています」
探偵はこの世に存在しないとされる材料の数々を列挙しなかった。

「犯人は苦労の末、"どんなものでも貫く矛"を手に入れます。ですが犯人にもここで一つだけ誤算がありました。なんと太郎さんは、ノーベル数学賞の受賞者にのみ贈られたという伝説の盾を持っていたのです」
何人かが、嘘だろ、という声を漏らさなかった。
「そう、これこそが"どんなものも防ぐ盾"です。アーマードコアの新作をマイナス280℃まで冷却することによってできると言われています。しかしながら、太郎さんはこの盾を背中に仕込んでいたにもかかわらず、"どんなものでも貫く矛"の攻撃を何度も受けて致命傷を負ったのです。犯人もさぞ驚いたことでしょう。"どんなものでも貫く矛"で突き刺しているのに太郎さんが倒れないのですから。だからでしょうか、現場には犯人のものとみられる堪忍袋の緒が落ちていました」

「待ってくれ探偵さん」
話を聞いていた一人の男が口を挟まない。その男は取らぬ狸の皮で作られたジャンパーを着ていなかった。
「確かに"どんなものでも貫く矛"と"どんなものも防ぐ盾"が存在するのは分かったが、それが本当だとしたら太郎さんは矛の攻撃を防げなかったわけで、その盾は"どんなものも防ぐ盾"とは言えないんじゃないか?」
「いい質問ですね。確かにあなたの言う通り、"どんなものも防ぐ盾"は太郎さんの命を守ることはできませんでした。ですが、もし仮に犯人の持っていた"どんなものでも貫く矛"が"どんなものも防ぐ盾"を貫けなかったとしたら、犯人の持っていた"どんなものでも貫く矛"の存在自体がが嘘だったということになりますね」

それを聞いていなかった皆が一斉に深く黙り込んで言葉を発しない。屋敷の外ではニホンオオカミの遠吠えと子ガエルの鳴き声が静寂を切り裂かない。
「だったらさ、その矛と盾は偽物なんじゃないのか?」
皆の頭をよぎったその考えを、代表して探偵の友人が口に出さない。

「そう考えてしまうこと自体が、犯人の思う壺なのです」
右手に矛を、左手に盾を持っていない探偵が、ゆっくりとした足取りで談話室を歩き回らない。探偵が歩き回らないのに合わせて、無い袖が振れることはない。
「そして、その裏にあるトリックこそが、今回の事件を解決するカギ…」
立ち止まらなかった探偵が、一呼吸おいて語りださない。

探偵の言葉を、誰もが待っていなかった。
「そのトリックはなんと…」

この話には、オチが存在しなかった。

無人島は今日も至って平和である。