奈良の『破石(わりいし)』 関連記事 /2014年記事のバックアップ (第2次)

🔶『破石』で誰かが得する? - 2014/10/21(火) 午前 2:55

奈良の『破石(わりいし)』、もっともパワフルな塚と言われる『吉備塚』 
このブログが今の状況をよく伝えておられます。

http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm057.html / 

以下、私の見解であります。

(吉備塚の北に『晴明塚』もあると聞きますが、)これらの吉備塚をメインとする伝承が近辺の陰陽師によるPRとするなら、ここでの陰陽師のイメージの中心は、近年主流である安倍晴明よりも吉備真備だったと思われる。

ただ伝承にある、吉備塚から夜中に吉備真備の霊が晴明塚へ通う(姿を見た者は、その日のうちに死ぬと言う。この話は『祟り』以外に何らかのリアルで威嚇的な『禁忌』を匂わせていたかもしれない)設定は晴明側の優位性を伺わせる。

破石は吉備塚の北方にあり、十字刻線の北側(北東)が阿部氏(安倍晴明と関連?)の領地を示し、南西側が吉備氏の領地、南東が藤原氏領を示す境界石だったとされるが、
〔リンク先写真の〕十字線の右側を斜めに横切るもう一本の線が気になる。

いかにも自然に割れてできた感じの線だが(奈良時代の技術でも境界石ならもっと整然と加工できた筈だ)、この線があると(破石は土中から掘り出されたそうで、本来の向きに置かれているとは限らない。向きによっては)例えば、北東の阿部氏の領域に南東の藤原氏の領域が大きく食い込んでいると解釈されかねないのでは。

藤原氏関係の剛腕な幾つかの逸話(破石の北東、春日大社の社地伝説など)を連想させる。

吉備真備安倍晴明の連携の伝説も、有力な藤原氏への威圧の意味も持っていたかもしれない。

Twitterで私が記した、奈良関連ツイートは、こちらになります。(※註1. ツイートのコピーを下に貼出) 
https://mobile.twitter.com/nara_matsumura/status/525217703561158656?p=v

(15年7月27日修正〔改行〕)

🍁

上の記事は、📕2019年12月にサービスが終了されるYahoo!ブログで、かつて発表したものです。Yahoo!ブログはブログの移転を勧めていますが、私はYahoo!ブログへのログインが成らない等の事情で、Evernoteにクリップ (コピー) したものを、📓ここへコピーしています (第1次バックアップ。若干の修正有り)。

註1.
Tweetへの上のリンクからは、今 (23年10月) の私の機種からはツリー (連ねて書いたツイート) の最後のツイートしか出なくなっていて (X [旧Twitter]の運営方法変更の影響でしょうか。以前はツリーとして出てました)、その上に連なるツイートが直接は出せてません。しかしEvernoteにそれらのツリーの文面をコピーしていたので、ここに貼ってみます (各ツイートのURLは記録しておらず、私からは全ツイートそのものは埋め込めません)。→

🐥 2014年10月22日-23日

奈良市の『破石』の十字刻線は、かつての境界線との説があるが、十字の半分側にもう一本斜めに横切る刻線があるため、石の置き方によっては『南東の藤原氏領』が『北東の阿部氏領』に大きく食い込む解釈の可能性があったかもしれない、とブログに記入。 

私の見る限り、先述の奈良の破石の十字線を境界線だったとする論述はあっても、もう一本の線をかつての境界の概念と絡めた人はいないのではないか。奈良時代の阿部氏も、(この線を石の素材としての非人工的な形状だと思い、)十字の部分のみを見て破石を境界石と認めてしまったのかもしれない。

『東大寺要録』によれば、破石の北東に当たる春日山(麓の、春日大社は藤原氏と関係深い)は、かつては阿部氏の領地だったという。

春日山麓での藤原氏関連の施設の拡大に幾つかの見解や時間的経緯もあるが、だからこそ境界にしても固定的な石材や祟り伝説で永続的に決定可能なものでもないだろう。当時の技術から見てももうすこし整え得る自然石が境界石であったとすれば、力がある者に有利な解釈多岐性が生じ易かった印象も受ける。


🔍 破石や赤穂神社のヒメ塚、新薬師寺前のヒメ塚 [比売神社] と玄昉塚 etc.  に関する他の方の記事

📝 (私のコメント)   
新薬師寺門前にある、十市皇女を祭神とする比売神社が建つ前のヒメ塚を (墳墓だとは意識せず) 目にしたことがあり、たしか簡素な結界が張られた土盛りだけを覚えてます。( https://ja.wikipedia.org/wiki/十市皇女#十市皇女の被葬地 )
隣の鏡神社の宮司さんからは周辺の伝承地について何度かお話を伺いました。比売神社前で伺った時は、横にある御霊が宿るという複数の石に猫たちが乗ってくるのを、シッシッと払われてました。
触れれば祟るとされる破石にも猫は乗るらしく、周囲に猫よけペットボトルが巡らされてますが、猫ちゃんは石が好きなんでしょうか。
(近くの吉備塚は草を刈っても祟るとのことですが、鹿が来てる画像がネットに載ってますね。)
頂いた鏡神社のパンフレットには、下御霊神社 (京都) の祭神に「吉備内親王」の名が書かれてあります (下御霊神社の社伝での複数の祭神には「吉備聖霊」が含まれ、それに相当するとの説明でしょう)。
赤穂神社 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/赤穂神社 ) にあるという、もうひとつのヒメ塚 (氷上娘の墓所説がある。) に関しては、扇野聖史氏が「万葉の道」で境内自体の墳墓説を紹介してましたが、数年程前に実地で見た時は墳墓的な地形は見て取れませんでした (近くの鏡神社はおよそ西方向への傾斜地である中で、墳墓のごとく高くなってますが)。境内の灯篭近くがヒメ塚伝承地というピンポイントの説明は初耳でした。
井上内親王 (井上皇后) に関しては新薬師寺の近くでは、北東隣の不空院の本堂 (西向き) の南東裏手に「御霊塚」が有り、井上内親王所縁の塚とのこと。

📔 ブログ内記事


(📓23年10月に書き込み機能不全となった私の別巻ブログ [原因不明 (参照 https://note.com/artandmovie/n/n8c58482ded8e ) /📓はてなブログ ] からの📔バックアップ・リライト 公開 [第2次バックアップ。一部修正。10月] 。関連記事欄には、バックアップ作業中のためリンク機能を停止中の分も有ります。📔noteでの記事枠は、以前トライアル的に作ってあった記事枠群から関連記事の月日に近いものを選んで、貼出しています。10月更新)

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