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東大寺修二会終わる

3月1日から本行が行われていた東大寺修二会は
3月14日に「本行」を終え、
日程上の「満行」(まんぎょう。※1) となり、主な日程を終了しました。

実際の時間上は、(去年参観した時は) 日付が15日に変わった0時過ぎに
「達陀 (だったん) の行法」(※2) が行われましたが、
それも日程上は14日のプログラムのエンディングになるのでしょう。

15日にも関連の行事がいくつか有るので、
全体としては15日で終了となっていますね。

以前からこのブログでも、
「 ( 752年 [天平勝宝4年] 、東大寺本尊の大仏開眼と同年に始められた ) 
東大寺修二会の元来の目的は吉備皇女・長屋王一族の鎮魂であっただろう」
という説を何度か述べていますが、

その吉備皇女・長屋王一族の邸宅が、
「続日本紀」(しょくにほんぎ  ※3 ) の記すところ、
兵に囲まれた2月10日が、
いまの新暦にすると3月14日 (729年 [神亀6年] ) であり、(※4)
長屋王が自害を命じられ
(「続日本紀」原文 [《天平元年(七二九)二月癸酉【十二】》の項 ] では「令王自尽。」とあり、「王を自害させた」と訳されます。) 、
吉備皇女・長屋王一族がほぼ滅亡した2月12日が、
新暦だと3月16日となります。

( 元来この東大寺修二会は旧暦の二月に行われ、二月堂の名もそれが由来ですが )
日時的にこの「長屋王の変」と重なることも
修二会が、吉備皇女・長屋王一族と元来関連を有する傍証かもしれません。


その、本行が終わった後の15日、
「前日」の達陀の行法で着用された帽子を参拝の子供たちに被せてご利益を授ける
「達陀帽」(だったんぼう) のイベントを見ようと
二月堂の近辺に再び行き、しばらく探したところ、

閼伽井屋から水を汲む儀式でも行き来する長い石段を登った、
二月堂の南の石敷きの空間で行われていました。

若いお母さんたちが同行しているとはいえ、
子供たちが石段を登って行くというシチュエーションが、ちょっと予想外でした。 

私は、ぜんざいをいただきに、その広場の茶店に入りましたが
しばらくそこにいる間も、子供連れは続々と「達陀帽」へと詰めかけ、列を成して
達陀帽を被せてもらったあとは、二月堂の西にせり出した舞台の方へ行き、
西向きの本尊さんにお祈りして、北側の階段を降りる流れができています。

そのことが、或る「効果」を生んでいることに気づきました。

二月堂南西の長い石段、南の達陀帽から、西の舞台、北側の階段、

二月堂を囲むかのように進む子どもたちは、絶えず笑ったり楽しく叫んだりしています。

昨日まで、過去への悔悟に満ちた神妙で内省的な二月堂の雰囲気が、
一夜が明けた今日は、未来を表す子どもたちの笑い声に包まれて行き、

そこに何らかのシンボリックな情景があらわされていることを感じずにいられませんでした。



📖 ブログ内記事 (21年3月) 



〔随時更新。3月30日, 21年3月15日, 22年3月12日16日, 23年9月更新〕

(※1)  
14日を指す場合もある ( 昨年の報道 ) が、
東大寺ホームページ〔 https://www.todaiji.or.jp/annual/event/shunie/ 〕
には、(1日から14日を本行とし、) 15日が「満行」とある。

(※2)
「達陀の行法」は12、13、14日の、およそ23時頃 ( 日程上の「後夜」 ) に行われる。

(※3)
上代日本の「正史」の総称「六国史」(りっこくし) 原文 ▷ 🔍  http://www.kikuchi2.com/sheet/rikkoku.html 
第二の史書が「続日本紀」の原文 (漢文) となります。

(以前他のブログでも述べましたが)
比較的入手が容易な講談社学術文庫版は現代語訳のみで、このリンク先の原文(漢文)のみと併せると、コンプリートな資料になりますね。
『天平元年 (七二九) 二月辛未』の項に『長屋王の変』の記述があります。
正確には、この日は前の元号である神亀六年に含まれ、天平は長屋王の変の後に定まった元号でしたが、この続日本紀では年単位で元号を区分しています。

(※4)
参照  🔍 ウィキペディア「2月12日 (旧暦)」  https://ja.wikipedia.org/wiki/2月12日_(旧暦) 

( これも以前他のブログでも述べましたが )
『ユリウス暦』は『グレゴリオ暦』に比して〔古い方の新暦〕ですが、
729年当時を数える場合は『ユリウス暦』(を『新暦』扱いにすること)で大丈夫なようであります。

(本来『ユリウス暦』から新規の『グレゴリオ暦』に改められて今に至っているのは、
時代が下ると『ユリウス暦』と太陽年との誤差が次第に大きくなり、10日程にもなったのが理由で、
そのため16世紀に新しく『グレゴリオ暦』が定められたそうですが、)

その800年ほど前の729年を表す時点では、
〔古い新暦〕である『ユリウス暦』での729年3月16日が、
〔新しい新暦〕である『グレゴリオ暦』においても729年3月16日に当たる、
(両暦の間に『誤差』は大きく生じていない)ということなのでしょう。

また、西暦729年当時は未だ『グレゴリオ暦』が無かったので、当時を言い表す場合『ユリウス暦』と言った方がいいということでしょうか。

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