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「長屋王の変」 729年3月16日 (神亀6年2月12日) ・ 関連記事 (虚言が圧倒的多数となるネット等の論評の奇妙さ、など)


「長屋王の変」 と 「お水取り」

東大寺修二会 (通称 お水取り) の時期が
旧暦では2月1日からだったそうなので  (修二会が15日間ならば、)
続日本紀に旧暦2月10日から12日とある
「長屋王の変」の時期と日時的に重なっていたことになりますね。

🔍参考 東大寺公式ページ

「長屋王の変」に関して、 虚言が圧倒的多数となるネット等の論評の奇妙さ

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政務に当たる太政官の最高位の左大臣として善政を行なったとの
 (複数の歴史学者からの)  指摘が有る長屋王 (天武天皇の孫)。
 
その長屋王が自尽を命令されて (「令王自尽」[続日本紀]) 、
(外戚に) 藤原氏の血を引いていない「吉備内親王・長屋王一族」が
絶滅し、
後の日本史の藤原氏が実権を持つ権力構造などへの
決定的な影響をもたらした事件が「長屋王の変」ですね。

ネットで「長屋王は自死かどうか」を問うたブログや
「単なる権力闘争」などと述べて、何故か多数のライクを得ている書き込みが有りますが、[※1 で詳説]

続日本紀を読めば「令王自尽」と書いてるのですから、
本来的な「自死」で無くて、命令された亡くなり方であって
記録上は論議の余地が無いはずですし、

「対等な権力闘争」と言うよりも、
「一方的な権力行使の結果」であることが明確なはずですが、

どうもネットなどでも、驚くべきことに基本的な事実関係を無視したレベルで
適当な事を言ってすませたがる人がいるんですよね。

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📔 ブログ内関連記事集 I 




🔍 関連他者記事 

🔍 関裕二さん (歴史研究家) の記事 『古代人が恐れた「長屋王」の「祟り」と「疫病」』 

📝 ネット記事では、落雷の件の指摘は初めて見ます。


🔍 朝日新聞記事 『聖武天皇、仏教への深い帰依 きっかけは大地震?』

📝 そばを通った生駒に長屋王一族が葬られていることとの関連や、
奈良のこの辺りに霊山寺が聖武天皇の発願で建立された事との関連等も、
確かこのニュースの頃に指摘されていた記憶があります。

私が16年10月に初めて霊山寺に行った帰り、中国地方の辺りでの地震で
帰りの近鉄電車までが影響を受けて停止し、富雄駅で1時間程待ちました。
(長屋王の命日3月16日は霊山寺の名の由来となり、寺内に供養塔があるインド人僧侶菩提僊那の命日でもあります。)

🎞 しまかぜ鉄道チャンネル YouTubeアカウント 「2016年10月21日鳥取県中部地震発生④ 近鉄奈良線で遅れが発生しました」


🔍 保立道久東大名誉教授 (歴史学者) のTweet.


🔍 東京新聞Web記事 「万葉ポピュリズムを斬る」(品田悦一東大教授 [日本古代文学] 著) に関する、藤井貞和氏 (詩人・東大名誉教授 [国文学]) の書評
『奈良時代史のなかで不快をきわめる事件は、「長屋王(ながやのおおきみ)の変」(西暦七二九年)だ。王は政敵・藤原氏の陰謀によるらしく、家族ともども死を強制される。こういう事件はまったくやりきれない歴史の暗面で、耐えがたい。』


🔍 東大教授 品田悦一さん 緊急寄稿 (はてなブックマーク)
 『「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ』  
「長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない  (中略)  
これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。」 https://docs.wixstatic.com/ugd/9f1574_d3c9253e473440d29a8cc3b6e3769e52.pdf 


📝 先述のネットの書き込みなどでの長屋王に対する、変にひねくれた動向ひとつ見ても
長屋王的・善政的に筋を通すこととは逆の方向性、暗黒面は
日本で克服されるどころか、近年特に強まっている感じがします。
そこからも、やりきれなさを強く感じるのかもしれません。

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🔍 原田実さん (歴史研究家・作家) のTweet. 

「長屋王の変」 に関する論調に感じる偏り 


「蘇我入鹿 (蘇我氏) と山背大兄王 (聖徳太子一族)」のイメージと比べても
「藤原氏と長屋王一族」においては
大体のメディアでは「藤原」系のイメージは、
それだけのことがありながら
例えば「蘇我氏」とは比較にならない程、明らかに意図的な程ポジティブ。

逆に、被害者である「長屋王」のイメージの方が「ネガティブ」である。

「日本霊異記」の作者である
[長屋王一族ゆかりであるはずの、つまり聖徳太子一族に対する法隆寺僧と同じ立場であるはずの] 薬師寺僧・景戒の
[単なる批判どころで無く、長屋王のみならず長屋王一族の絶滅を喜ぶ]
書きぶりや、

「懐風藻」の近年註釈のひとりによる、
長屋王の詩への口を極めた論難・藤原氏の詩への賛辞なども含めて、

総じて「ネガティブ」。

かつ「ポジティブな評価につながる点が軽んじられる」ことが多い。
例えば奈良前期の名作「薬師寺東院堂聖観音像」と「吉備内親王 [あるいは長屋王]」との関連が殆ど述べられない。
奈良中期の「天平芸術」と「聖武天皇・光明皇后」の関連への言及とは比較にならない程。

また、幾つかの宗教的事柄に追善の意図が含まれているなどと言っても、
表立ったものは少ない、
と感じざるを得ません。 

そして厳密さ [※2] を求めるはずの史学者は
「奈良時代には怨霊への鎮魂の記録が無い」というだけのことを、
「奈良時代には怨霊思想が無かった」などと言ったりする。

それらの根底にある判断基準は、「歴史の勝者に遠いか近いか」だけであり

「事実関係の真の局面がどうかの見極め」に立ったり、
「歴史の弱者」の味方となったりしても、
為にならないという姿勢
逆に言えば、「勝者」の味方・観点に立っていれば何かと「楽」であるとの隠された計算的姿勢だ、
という認識に行き着くと思います。

しかしダイナミックに筋を通した論評を述べる方もおられますし、
私も多分ここで初めて「長屋王の変」に関して
突っ込んだコメントを書いた感じがするのですが。


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※1.  ネットでの組織的な作為

もちろん権力構造に関する、より大きい枠組み的な問題意識で
庶民とは関係の薄い問題とする見方も有り得るでしょうが、

(《「長屋王の変への問題意識」への無効化》を意図したコメントにおいて)
ネット等で専ら見られる事例は、

(客観的史料を出しながらの意見を遥かに上回る程の)
「多数のライクを短時間に得ている書き込み」である点など
(以前から時々露呈することがある) 《権力寄りの》組織的な作為がうかがえる例が殆どだと感じます。

なぜ《権力寄りのスタンス》が
《「長屋王の変への問題意識」への無効化を意図》するのか、
直接的には分かりませんが
一般的なテーマにおいてすら
《「問題意識」を活発にして論議すること》自体を
《権力寄りのスタンス》が嫌って
強引にでも否定にかかってくることは、特に最近の日本ではしばしば見聞きすることです。
「長屋王の変」的なテーマだと、なおさら論議を無力化したがる理由がいくつか考えられるかもしれません。

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※2.  実証主義歴史学への疑問点


🔍「来るべき書物」さんの記事 (「実証主義歴史学への批判」に関して)  
「アメリカでは、実証主義的な教育方針を採っていません。学生はさまざまな方法論を勉強し、自らの研究対象に最も有効な方法を選び取ってゆきます。史料を一字一句疎かにせずに輪読してゆくといったゼミの方式も、日本だけではないかと思います。」


🔍 紀伊国屋書店公式ページ 「Historia ヘロドトスとトゥキュディデス―歴史学の始まり  桜井万里子著」
『ヘロドトスはほんとうに「嘘つき」だったのか。史料批判において厳密だったといわれるトゥキュディデスは、ほんとうに「事実」だけを記録したのか。』


🔍 広島大学大学院 楠戸一彦さんの記事『歴史研究は「実証から離れる」ことができるか?』 「文字史料に基づく実証的研究を認識方法とする科学が歴史学ではないだろうか。文字史料ではなく、遺物や伝承あるいは観察によって過去の経験的出来事を認識する科学は、考古学や民俗学あるいは文化人類学と呼ばれるのではないだろうか。」  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjshjb/22/0/22_KJ00005581068/_pdf/-char/ja 


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📔 ブログ内関連記事集 II


📔 日本の「実証主義歴史学」からの批判を受けることが多い梅原猛について 

📔 長屋王の変などについて (23年2月)

📔 ブログ内「長屋王」関連記事リスト (検索結果) 

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 「御霊」関連記事 

📙 以前ネットに書いた記事 (早良親王 [750?-785] と 「長屋王の変」  [一部改訂])

「 ウィキペディアの『早良親王』(崇道天皇として追諡。アイコンは崇道天皇社 [奈良市])

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B 

の脚注にある、早良親王の亡くなり方に関する西本、長谷部両氏の推定(飲食を与えられなかったとする説)と類似した状況が、
長屋王一族の亡くなり方にもあったかもしれない。
長屋王邸が包囲されてから一族が亡くなる迄のタイムスパンが3日間であること、
その旧暦2月10日から12日(新暦3月14日から16日)の期間を含むが如く挙行される東大寺修二会
〔旧暦が用いられた頃は、修二会は2月1日から14日(15日)まで行われた。
『長屋王の変』当時から天皇であった聖武天皇が後に創建した東大寺の、ほぼ創建当時からの行事〕

の、もっともポイントとなる儀式が、『本尊』のために水を汲み、捧げる『お水取り』であること等からの連想です。」

🔍 (「御霊」関連記事) 「伊予親王」 (783?-807. 平城天皇への謀反の疑いで、母の藤原吉子と川原寺に幽閉され、飲食を断たれて「自害」。後に無罪とされ「御霊」として祀られる)


📔 ブログ内「菅原道真」関連記事リスト (検索結果)


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(随時更新。16日10月23年2月更新)


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