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「鹿ケ谷の謀議」で藤原成親・俊寛らが配流(1177年6月27日 [治承元年6月3日])。

「鹿ケ谷の謀議」で藤原成親・俊寛らが配流(1177年6月27日 [治承元年6月3日])。


🔍 ウィキペディア「俊寛」


🔍 ウィキペディア「鬼界ヶ島 (奈良市)」

平氏打倒の「鹿ケ谷の陰謀」に加わったとして俊寛が配流された、薩摩の「鬼界ヶ島」を模したと考えられる同名の場所が奈良市に有りました。

その奈良市の「鬼界ヶ島」 の正確な場所は不明とされますが、
古地図では、新薬師寺創建時の中心部跡の位置、
あるいはその東の位置 (今ある新薬師寺の南隣りの辺り。「俊寛田」がこの辺りとも言われる位置) に見えます。
薬師如来像を祀る堂宇が有ったそうで、新薬師寺との関連も考えられるのでは。

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興福寺菩提院大御堂 (十三鐘) の南門の前の道を南下して、左 (東) に折れてすぐ右 (南) に曲がった突き当たりの右 (西) へ曲がる角での、右のフェンスの中に「俊寛塚」と彫った石柱が有ります。
Googleマップでも「俊寛塚 奈良」と検索すると出ました。

🔍 Googleマップ「俊寛塚 奈良」  https://www.google.co.jp/maps/place/俊寛塚/@34.6808824,135.8311839,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x600139d4d1e35e57:0x565cc21e43c85be1!8m2!3d34.6808824!4d135.8333726

📷  俊寛塚のすぐ北から、興福寺の菩提院大御堂 (北 画面中右奥) と五重塔、興善院跡の地点 (画面右上) を望む

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📷 俊寛塚 石碑 (フェンスの中)

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📷 俊寛塚 (画面中左上 コンクリート壇上の草むら) を北方向から見る

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数十年前、初めてここへ私が行った時は、俊寛塚へは西からの道のみで、塚と菩提院とをつなぐ道は作られておらず、俊寛塚のあたりで行き止まりになっていました。その頃のミニコミ紙記事の写真に、たしか載っていた俊寛塚の石塔は、私が行った時は既に有りませんでした。

興福寺菩提院大御堂の東隣に、私も時々食事に行く「菊水楼」が有りますが、その地点が、俊寛の師・蔵俊の住房であり、俊寛が年少時から止住した興善院 (興福寺の塔頭) の跡地です。
その南西にある俊寛塚は、平氏を1185年に滅ぼして政権を奪取した源頼朝による奈良寺院の復興と同時期に、興善院の蔵俊が作ったと考えられています。


📷 興福寺菩提院大御堂 正面 (南面)  

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[2019年撮影]
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🔍 菊水楼公式ページ


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(6月7月21年1月更新・修正)




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