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また大事に育てていく

満月の見える夜、言葉の通じない国で大事なことから忘れていってしまう病気になった話。

診断結果を元に。

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嫌なことは全て前兆があるわけじゃない。肝に銘じろ。

そんな言葉が綴られた最初のページを見て、溜息を吐いた。
もうこんな思考回路になってから、新しく触れるいろいろがどれだけ大事かわからなくて、かたっぱしからメモを取る毎日。
そんな今を送る羽目になった始めの日は、ページにある言葉通り「変わらない日々」と差はなかった。

強いて言えば、唐突に外国の地を踏んだ初日だったということ。事前に言葉は勉強したが、すぐにすらすらと話せるほどのものではなくて不安はあった。でも異国の地で少し住みたい気持ちもあって葛藤しつつ、どうにかハンドブックでその日を乗り切った。くたくたな体をひとまず洗って、ベッドへ寝転ぶ。深呼吸をひとつして身を起こすと、ホテルに向かう道中でなんとか買った名物のエールをバッグから出した。茶色がかった瓶の中でエールが揺れる。
ふと窓を見れば、綺麗な満月で小さな頃に読み聞かせられた絵本を思い出した。まあるく焼かれたパンケーキが食べられないよう必死に逃げる話。最後はどうなったのか、ろくに覚えていない話でも肴にはなる。
喉を過る炭酸の刺激と鼻を抜ける柑橘の匂いをほどよく味わったところでエールは無くなった。
何気ない動作を重ねて、眠る準備ができた頃。ぽっかりと何かが抜けた。何が抜けたのかわからない。体に激痛が走るわけではないが、強烈な違和感によって眠気はなくなってしまった。空になったエールの瓶を見つめても、中身が戻らないようにわからなかった。

そんなことがその言葉のあとに、少しスペースを空けて続いていた。よほど違和感が大きかったとわかったのは、大事なことから忘れていく病気であることを知って思い出したから。ああ、あれが始めてだったんだと合点がいった。
帰国してから受けた健診で、受けるまでに色々なことを忘れていると実感することがいくつかあった。それらをなんとはなしに相談した。念のためにより詳しく調べたことで判明した病気はすぐに命を落とすような危ないものではなかったが、精神的な衝撃は大きかった。いくつかの症例から精神的な摩耗を緩和するために主治医になるカウンセラーの選定を勧められた。
思い当たるものは実家に関するものばかりだったから、それ以外のことで忘れている何かが知りたくて気が重い。知人、友人は特に支障がなかっただけに重みが増す。病気に罹ってから数年経った。

耽っていた矢先にノック音が小さくして部屋のドアが開く音がした。
「お食事に行かない?」
「行くよ、玄関で待っていてくれ」
ドアの側面に手を添えて、すっと顔を覗かせた彼女。長くてゆるいウェーブのかかった髪が肩と二の腕のあたりで遊んでいる。
彼女と自分がどういう関係なのかは思い出せない。彼女が言うには友達。
彼女の薬指には時々光を受けてきらめくリングがはまっている。自分にそのリングと似たものはないから、彼女の夫では恐らくない。
奇妙な関係だが、ここのマンションの大家である彼女とは「変わらない日々」を送っていた時から付き合いはあったようだ。家族、友人らから証言があった。
「わかった、玄関にいるわね」
ひらりと手を振って彼女はドアを閉めていった。それを合図に着慣れているジャケットを羽織って軽く姿見で確認してその後を追う。

「大事なことから忘れていってしまうから、大事にされていたと知るとは思わなかったわ」
玄関の前で男を待つ女性は小さく呟いて、薬指のリングをそっと指先で撫でた。ドアが開く音、自分に近づいてくる足音に気づくとさきほど彼を訪ねた「いつもの」顔に戻る。そして彼女は彼との思い出のレストランへ向かうのだ、また。

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