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liner by 河原そう / 「蛍と龍」 liner notes

この度、デジタルリリース3部作の第2部テーマ「大地」より
明後日8/15にリリースします新曲『蛍と龍』のライナーノーツを「河原そう」さんに書いていただきました。
これをお読みの方の中にはお馴染みの方もいらっしゃるかもしれませんが初めての方も多くいらっしゃるかと思いますので、ここに改めてのご紹介と、本文を掲載させていただきます。



「河原そう」さんは1984年10月9日生まれ、埼玉県春日部市出身のシンガーソングライターです。
出会ってもう何年も経ちますが、出会った当初から優しく慰めてくれたり、時に厳しく叱ってくれたりと、ずっと公私共に仲良くさせていただいていて、僕にとっては何か迷ったり立ち止まったりすることがあればいの一番に相談しようと思い浮かぶ人物です。


僕の楽曲は大きな物語の中のほんの一部分を切り取るように作られている物が多く、そうやって物語を断片的にくり抜いた楽曲部分を聴いても、あまりその全容まで知るのには難しい形になっていると思います。
実は今回リリースの『蛍と龍』もそうなのですが、このそうさんにお聴かせして実際ライナーノーツを書いていただいたところ、びっくりするくらい楽曲の真意をついていて、ある意味ライナーノーツというより楽曲解説に近い要素がたくさん含まれていました。
ぎくっとしたと共に、この人に書いてもらえて本当に良かったと思いました。
何も言わずともこんなにも理解してくれたこと、そしてそれは楽曲のことに限らず、僕の内面をたくさん知ってくれているからだということが文章から読み取れたことがとても嬉しかったです。

改めて書いていただけて光栄でした、本当にありがとうございました。



この文章は、この楽曲を理解する上でヒントになるワードがたくさん散りばめられています。
でももちろんその答えに本当の正解はなく、聴いてくださったそれぞれの正解が一番正しいと思いますし、正直そんなことはどうでも良くて、音や声を聴いていただいてフワッと楽しんでいただければそれで本望です。

それでもこうしてそうさんのように聴いてくれる人もいることに感謝をしながら、その思い・文章にたくさんの方が触れて欲しいなと願います。

以下、ライナーノーツ本文になります。
お楽しみください。




liner by 河原そう / 「蛍と龍」 liner notes

「蛍」、そして「龍」。
この二つは、相反する存在のように思っています。

蛍は小さな昆虫。
清らかな川の周辺に生息し、尾部を発光する昆虫として、一般的に夏場の風物詩として、人々に愛されている存在。

龍は、言うまでもないですが、実在するものではありません。龍は空想上の生物です。
一般的には、胴体はとても大きく、表情は禍々しく、古来から畏敬の念を持って取り扱われ、ファンタジー作品や漫画アニメ等々で扱われています。

蛍と龍。
「小さな発光する昆虫」と「大きな畏敬の生物」。
「実在するもの」と「空想上のもの」。
「ミニマム」と「マキシマム」。
「ノンフィクション」と「フィクション」。

僕はこのタイトルと初めて出逢った時から、そんなことを考えていました。

この数年、ライブを通してクロモという存在を見てきましたので、この「クロモ」という人が、表現したい”根本”が何なのかを考えたりします。

ものすごく自分勝手に、僕なりの解釈で。

ここから先は、すべて僕の想像であって、空想であり、クロモとディスカスをしたり楽曲内容の答え合わせをした訳ではないので、本当はこの曲の解釈に、明確なものは「実在しない」のです。
でも、これは僕の中には間違いなく「存在している」、僕の中の”フィクション”であることあらかじめご承知おきつつ、少しの時間お付き合いいただければと思います。


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『俺ってちっちぇー存在だな!』
『ほんと、しょーもないわ!僕!』
『何にも出来ないな、私』

これをご覧のみなさんは、このような気持ちになったことは、ありますか?
僕は、しょっちゅうあります。(笑)
ひどい時は、毎日毎時毎分毎秒!という具合。
あえてファニーな表現をすれば、”ネガティブシンキングエンドレスループ&ループ”!!!という具合です。

蛍は尾部が発光し、ふわふわと舞い、どことなく儚さを感じます。
僕らは蛍を発見出来ると、とても穏やかな優しい気持ちになります。
龍は空想上の生き物ですが、古から先人達が絵や像で残しているものを通して、神々しさを感じ、強いもの、願いの象徴のような存在です。畏怖の念を感じます。

このどちら存在にも、僕らは何故か「憧れ」を持ちます。
何故なんでしょう?

それは、きっと。
僕らには蛍のような儚さの中の光も、龍のような神々しい畏怖の念をいだかせるような存在感も、僕らは元来持ち合わせていないからです。
それは、純粋な「憧れ」だと僕は思います。

「実在」する「小さな発光する昆虫」にも「空想上」の「大きな禍々しい生物」にも、自分が持ち合わせていないから「憧れる」。

そんな「憧れ」が、「自分が持ち得ない」という自己否定になり、自分がものすごくちっぽけな存在のように思い、そんな自己否定の感覚は、かなりの長い時間、心を蝕み続けるものだと思います。

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もしこんな経験をお持ちのある方でしたら、クロモが紡ぎ出している作品はその傷つき蝕まれた心に優しく寄り添ってくれると思っています。

クロモの歌詞の世界観は、やわらかく、どこか懐かしく、幼さのような懐かしさのような感覚を思い出させます。
それはクロモの原体験からくるものかもしれません。


蛍と龍という物語は、主人公の「僕」は小さくもろい存在のように描かれます。
その存在を蛍に重ねています。
そして、蛍が重なり合って「龍」へと形造られていく姿。
その描き方は、レオレオニ作の「スイミー」のような姿じゃないかな、と僕は思いました。

でも、物語後半。
「蛍にも龍にもなれない僕」、と描かれています。

この感覚、僕にはすごくわかります。
蛍という小さい存在に重ねたのに、光を放てない僕なんて。
愛されもしない。何も照らせない。
蛍にすらなれない。蛍にすらなれないなら、龍にもなれない。

このネガティブスパイラルの方程式は、自己否定の概念を体の中に生み出し、そしてやがて”動けない心”が完成します。何も動かない心。


でも、クロモは描いています。
「同じだけ輝けるさ」と。
その言葉の背景に流れるバックビートは、動かなかった心をずっと叩き続けている心音のようにも聞こえます。


クロモは、その後に、「羨ましく思うことなどない」とも描いています。

そうです。
「憧れの存在」には、僕らはなれないのです。
僕は僕でしかなくて、私は私にしかなれないんです。
それぞれがそれぞれに、輝きを放てるように、毎日を毎日なりに、それなりをそれなりに、進んでいく。
それでいいんだよ、とクロモは言っているんじゃないかな、と僕は思っています。


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「小さな発光する昆虫」のように輝いて、やがてそれは「大きな畏敬の」存在になる。
「空想上のもの」がいつか「実在するもの」になる。
今は「ミニマム」だけれど、「マキシマム」になれる。
「フィクション」だった話は、やがて「ノンフィクション」になる。

蛍と龍が「光」を用いて交差して、そして重なり合って物語を、優しい風景を描いている、と僕はこの楽曲を聴いて感じました。


2021年になり、世界はこれまで以上に、いろんな人の思いは刺々しく交差し、反発し合い、心が落ち着かない日々になっていると感じています。

クロモの「蛍と龍」の僕の解釈はあくまでも僕の解釈として、この楽曲を聴いたみなさんの心に新しい風景が描かれて、心が穏やかになるような風が吹き、小さくとも輝く「希望」になることがあったら、その「希望」が集まった時に、優しい龍の舞う世界になるんじゃないかな、と。

そんな淡い期待と希望を、僕は持っています。

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