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画狂人北斎・浮世のドラマツルギー(後編) 〜映画『HOKUSAI』に思うこと〜

中村萬悠(なかむら・ばんゆう/美術史家)

〈北斎と浮世絵の環境〉 

さて、寛政6年、「北斎」は、出版界のリーダー、雄的存在の「耕書堂」の経営者であ り、阿部寛扮する蔦屋重三郎のところで、食客(お抱えの絵師)となる。 蔦屋重三郎(通称・蔦重)は、当時のメディア界のいわば大プロデューサーであった。 脚気が重篤化し48歳という年齢で早くに亡くなっている。が、その功績は絶大で、本 作品でも助演的な位置づけとして重要な役割を演じており、見るものを楽しませている。 蔦重は、最初「吉原細見」という、いわば廓の案内本(ガイドブック)の出版から身を 起こした人物である。その一方では、“天明狂歌連”などに加わり、「蔦唐丸」(つたのか らまる)などの狂歌名で、いわゆる数寄者、通人として、毎日吉原に通っていた。 映画では、歌麿が花魁の作品を描いているシーンなどで、吉原に通って散財しているよ うにみえる。が、実際には、先述した当時の江戶文化人の大立者であった大田南畝(浮 世絵の人名録である『浮世絵類考』を編纂)などを接待して、江戶の文化人の中枢や、 武士階級などへのネットワークを作ろうとしていたわけで、いわば根っからの“仕事人 間”であったのである。 

このように、一見“遊び人”を装い、実は、旺盛な営業力でアンテナをはっていた蔦重。 その深謀遠慮が功を奏したのか、江戶で一、二を争う版元(一大出版社)になった・・・。 この辺りの、蔦重の微妙な“心根”をポイントとして、そこに脚本家も演出も留意し、さ らに演者である阿部寛も、適切に演じている。

映画「HOKUSAI」蔦屋重三郎(阿部寛)


また「耕書堂」は、歌麿、写楽、北斎などの高名な絵師の一枚摺りの「錦絵」ばかりで はなく、いわゆる戯作本等も数多く出版していた。 北斎が読本作家の曲亭(滝沢)馬琴の挿絵を描くシーンでは、後にこの二人の共同作業
が決裂する『椿説弓張月』での有名な絶交エピソードを彷彿とさせるものがある。
後のこの大作家・馬琴も、現代で言うところの広告プランナーである戯作者の山東京伝 ( 絵 師 名 は 北 尾 政 演 と い っ た )の 推 薦 で 、蔦 屋「 耕 書 堂 」の 番 頭 を し て い た と い う か ら 、 いかに蔦重が”人材を発掘する目“を持っていたか、ということがわかるだろう。 

しかし、映画の冒頭、奉行所が乗り込んできて、”身代半減、手鎖50日“という処罰が くだされ、まるで”焚書坑儒“のように、膨大な戯作本や錦絵作品などが、奉行所の手に よって焼かれている光景に、驚く人も多いだろう。これはおそらく寛政元年や、天明期 時代に山東京伝らと組んだ書籍が対象となったものと思われる・・・。 蔦重の場合には、次から次へと新しい発想で趣向をこらし、話題を仕掛けていくという 奇知にとんだ発想で出版していた。いわばお上(幕府)の禁止令を先回りする天賦の才 覚があったので、お上から目をつけられていたといえるだろう。

〈武士ならびに格差社会の悲劇〉 

映画の後半で、永山瑛太扮する戯作者・柳亭種彦(『偐紫田舎源氏』などの著者)の 自死もしくは謀殺がえがかれている。本名は高島彦四郎(1783 年:天明 3 年の生 まれ、1842 年:天保 13 年物故)。食禄 200 俵の旗本、武士であった。 江戶時代中期以降、武士と町⺠との垣根は、暫時低くなってきたという感があった が、柳亭種彦の場合には違ったのだろうか。武士が狂歌や戯作本を著わすことは、 表向きご法度だったのだろう。
とは言うものの、町⺠階級の文化に武家階級がのめりこんだことで、最高位の人物 には琳派の大絵師・酒井抱一がいる。彼は姫路藩の次男坊で、後年には尾形光琳に 私淑し「琳派」の絵師になったが、最初の頃は“屠龍”等の画号で、浮世絵風の作品 を描いていた。その一方で、「尻焼猿人」などの狂歌名で、同じく武家の狂歌師・ 蜀山人(大田南畝)などと共に天明狂歌連を率いて活動。多くの摺物や暦などを出 している。 同じように、鳥居清⻑ばりの八頭身美人の女性を描いた、旗本直参の絵師・鳥文斎 栄之がいる。本名は細田時富と言う。従六位に序せられるといった絵師である。い かにも華奢で清楚なのが公家系の香りというイメージがある・・・。 さらにいうならば、地方藩などの江戶詰めの武士には、この手の趣向に染まる者も 意外と多かった。戯作者・朋誠堂喜三二(本名は平沢常富)もそうである。出羽国 久保田藩で江戶詰め、手柄岡持(てがらのおかもち)という狂名で活躍したが、「⻩ 表紙」が発禁処文となる・・・禁をおかしてまで創作したいという執念のようなも のがあり、⺠衆文化がいかに浸透していたのかがわかる。


さて、田中泯が瞑目しながら、小布施の豪商・高井鴻山に渡す場面で、上記の柳亭種彦 の“憤死”ともいうべきものへのレクイエムとして、描写したとも思われる作品。それは 『百物語 小はだ小平二』の頭部をイメージした作品と思われる。

映画「HOKUSAI」北斎(画狂老人卍時代)田中泯

〈驚異的なデフォルメ・細部にこめたエネルギー描写〉
「北斎」の作品で、細部に注目。たとえば「浪」ならば、おそらく北斎は自然界のエネ ルギーを鑑賞者に体感してもらえるようなシチュエーションで描くことを旨としてい た。それを表現するのに、彼方の富士山を巻き込むような「大浪」や、ぶつかりあって 「三角浪」のようになり、さらなるエネルギーの量塊を感じさせるものがある。 北斎が 70 歳になってから描く『冨嶽三十六景』の「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」と いう代表作へつながる絵、視点の発芽が映画の中でも描かれている。

北斎は自分が到達したその波の表現、下絵・スケッチを蔦重に見せる。当然、これから 色をいれるわけなので、“墨線の白描”だけの絵になっている。映画で映し出されるその 作品は、『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」の 30 年以上前に描いた通称「浮絵」(オ ランダ画のように遠近感がある)、狂歌本『柳の絲』の「江島春望」と推測される。


この発想をもとに後年、プロシア(当時のドイツ)で開発され、オランダを経由し、わ が国の⻑崎に入ってきた通称「ベロ藍」(ベルリン製造のプルシアンブルー)を使い、 有名な“⻘”が、北斎や広重の風景版画作品の主役の色彩となっていくのである。


他方、これらの自然エネルギーではなく、霊的なもの、善悪の闘いのパワー、爆発 などを表現する際に、現代のマンガの原点になったとおもわれる表現も多数ある。 北斎は『北斎漫画』などの「絵手本」、『龍宮洗濯噺』などの SF ファンタジー系を題材 にした「⻩表紙」、『東都名所一覧』の狂歌絵本、『新編水滸画伝』などの、いわゆる小 説である「読本」の挿絵。またエロティシズム表現、春画艶本の『万福和合神』など。 その細部に多種多様で、さまざまな意匠や技巧を駆使した描写が驚くべき筆致で描かれ ている。まさしく、美は細部にやどる、である。 本映画には、これらの細かな筆致を鑑賞できる場面は、極めて少ない。ドキュメントや 美術作品紹介の映画ではないので狙いは違うが、美術史の立場から言えば、もう少し作 品の細部もクローズアップして欲しかった、というのが本音である。

八方睨み鳳凰図(北斎筆・画狂老人卍)岩松院

《八方睨み鳳凰図》北斎筆・画狂老人卍(岩松院)

〈最後の「北斎」〉
冒頭で述べたが、「北斎」は 90 歳の天寿を全うした。しかし心底では、「100歳まで いきれれば、もっと良い作品が描けるはずだ・・・」と語っていたと言う。 晩年の製作は、⻑野県小布施である。84歳〜89歳まで断続的に小布施を訪問。本映 画 は 最 後 に 、 小 布 施 で 描 い た 『 男 浪 図 』『 女 浪 図 』 の 前 で 佇 立 す る 場 面 で 終 了 し て い る 。 

本映画には、一般的に「北斎」の代表作といわれる作品は、ほとんど完璧な形では登場 しない。美術映画ではないので、コンセプトがちがうのだろうが、やはり数点だけでも 見たいものである。可能であれば、普段、天井画のためその全貌がみえにくい、小布施 の 岩 松 院 の 、2 1 畳 も あ る『 八 方 睨 み の 鳳 凰 図 』を 映 画 作 品 の エ ン デ ィ ン グ と し て 撮 影 ・ 構成していただければ良かったかというのが、見終わった後に感じたことである。


鳳凰は、不死鳥であり復活の象徴である。それは「北斎」のイメージと重なるのである。 

「人魂で行く 気散じゃ夏野原」

北斎の最後の言葉である。

                                (了)

  【Profile】 中村萬悠 (なかむら・ばんゆう) 美術史家

美術展・展覧会プロデューサー、美術史家・キュレーター中村祐之として、これまで『利休・千家十職展』『琳派―光悦・宗達・光琳―』『大英博物館展』『北京故宮博物院展』『シルクロード展』『トロイアの発掘秘宝―アガムメノンの黄金仮面―』『印象派展』『ピカソ展』『ミロ展』『ダリ展』『キース・ヘリング大回顧展』など多数。著書に『美のエクリチュール』(造形社・1985年刊)。日中友好記念オペラ『天人』(総合プロデューサー・原作)などがある。美術専門出版社で書籍・編集、雑誌編集長、出版担当役員を経て、現在、株式会社SOZOBUNKA. bis代表取締役。

『手塚治虫展』(東京国立近代美術館・1990年)や、石ノ森章太郎、里中満智子らが呼びかけた『第一回東アジアMANGAサミット』を立ち上げるなど、漫画・サブカルチャーをファイン・アートとして公共の美術館で初めて開催した。他にも『広島アニメ・ビエンナーレ』(2004年)総合プロデューサー、『星の王子さま展』など。美術館のキュレーション・調査から、芸術・文化の歴史調査や、国家間周年事業、博覧会のテーマ・コンセプト、パビリオン企画提案・展示構成など40年以上に渡り、多数手がけている。





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