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麒麟が来た 4

麒麟が来た 1 
麒麟が来た 2
麒麟が来た 3 

の続きです。

麒麟が来た #4

何者でもなく、何もできない自分。まだ、それを受け入れられず、立っているのもやっとなくらい、打ちのめされて、重力が増したかのように体は重く、気圧が変化したのかというくらい、空気が重く、呼吸も苦しく感じられた。

そんな時にまた、麒麟が現れたのだ。

鳥取砂丘には、長い時間滞在していた。

初の鳥取県訪問。予定としては色々と行きたいところに目星をつけていて、なんとなくのタイムスケジュールは組んでいた。

しかし、予定よりも大幅に砂丘にいる時間が長かったし、そもそもどこかに行きたい、という気分ではなくなっていた。

とは言っても、ホテルに行ってもどうせやることはないし、そしてやはり(せっかく来たんだし)と思い、そこから車で20分ちょっとの距離にある「白兎神社」というところへ行った。

ここは、日本神話で有名な「因幡白兎」の舞台になった神社とのこと。

いい神社でした。もちろん悪い神社、なんてないのだけど、とにかくとても良かった。海岸の前の小高い丘の上に神社があって、その立地的な環境と相まって、すごく整った気に満ちていて、優しい場所だった。

参拝して、神社の横に沼地というか、森に囲まれた池があって、そこでぼうっとしてた。僕がやって来たのと入れ替わりに、数名の参拝客とすれ違ったけど、他に誰もいなかったから、気兼ねなくボケっとした。考え事のような、雑念の中にいるような、とにかくぼんやり。

その池は「御身洗池みたらいいけ 」といって、ここは因幡の白兎が皮をはがれた後、この池で体を洗って清めたといういわれのある池とのこと。

池の水は上の写真通り濁った沼地で、周りには木も生えていてるので別で景観が良いとは言えないけど、とにかくもう“空っぽ”というか、自分を完全に見失っていたので、景色を眺めるわけでもなく、ただ“そちらの方を見ながら”、ぼんやりと立ち尽くしていた。

おかしな言い方だけど、「自分を見失う」以前の“自己”そのものが、欠落していたというか、かといって、かつて宇宙と一つになったような「“わたし”がいなくなる」ような感覚でも、その後の虚無の意識でもなく、とにかく打ちのめされていたんだと思う。

だって、今までの自分、今の自分、これからやろうとしていた自分、すべてが虚ろで、すべてが幻想であり、自分が仕立て上げた「嘘」だと知ってしまったから。

自らの「エゴ」や「虚栄」「承認」などを、きれいごとで取り繕っていたし、何より自分自身の「本質」ではなかったということ。

そして実はちょうど、その1週間前くらいから、立て続けにしばらく連絡をとっていなかった知人数名から連絡があり、色々と考えさせられることを投げかけられたのも大きく影響していた。

仕事や、自分のキャラクターを新たに構築して、ビジネススタイルを変化させようと動き始めた時期でもあった、というのも関係ある。

多少強引でも、多少大袈裟でも、自分の伝えたいことを薄めて、わかりやすく、妥協し、他のインフルエンサーを巻き込みながら、一人でも多くの人に夢を与えながら、その中から厳選して探求者を募ろう、そういうプランを練り直した。

まあ、かつて僕が散々やったことなんだけど、もう一度、影響力や知名度を上げて頑張ろうと考えた。それに対して賛同、応援してくれる、僕に提案した現実的に力強い人もいた。

しかし、そんなやる気も元気も、全部打ち砕かれたのだ。その計画も、その計画していた自分も、全部幻想で、全部勘違いで、全部偽物だったと知ったのだから。

(はー、俺、全部やめちゃおうかな…)

本気で思いました。

これからのプランはもちろん、今やってる仕事そのもの、人間関係。社会的なもの、ありとあらゆるものが、無意味に思えたし、ここ数年積み上げてきた自分という立場やあらゆる関係性に、価値を見出せなくなった。

(家族を養なって生活できれば、なんでもいいんだよなぁ)

そう。別に仕事なんてなんでもよかった。衣食住が賄えればよかった。僕は小器用になんでもこなせるタイプだし、与えられたことは一生懸命やる方だし、どんな仕事でも基本的に楽しめるタイプ。

だからもう、人になにか伝えるとか、教えるとか、そんなことやらなくてもいいかなと…。そうすれば、集客だの、経費だの、告知だの、そんな面倒なことも全部しないでいい。

そもそも、こういう仕事が「自分のやりたいこと」なのか、散々迷ってきた結果、「これは俺のやりたいことだ!やるべきことだ!」と、この頃腹を括っていたのに、その「俺」そのものが何者でもなかっ………

『ガサッゴソッガサッ!!』

あれこれ思いを巡らせながら池の方に視線を送っていたのだけど、斜め前の茂みに突然、大きな動物が通った。

一瞬だったけど、鹿とか、そんな動物の後ろ姿がちらっと見えて、豪快に葉っぱや木の枝を揺らしながら、その動物は茂みに消えた。

突然、目の前に大きな生き物が、大きな音を立てて動いたので、油断していたというか、さすがにギョッとしました。

(な、…なんだ今の?)

と思ったのとほぼ同時に、

「〇▲✖️✖️▲✖️✖️〇▲✖️!!」

声が聞こえた。とても文字には表わせない鳴き声が茂みの中から聞こえた。

僕は長野県に住んでいたので、鹿の声、カモシカの声、なんとなくわかるけど、そういうのじゃない。でも、どういうのか?と尋ねられても、とにかく奇妙キテレツな鳴き声だった。

その動物はすぐそこにいた。でも、姿は見えない。枝と葉っぱだけが揺れて、そのまま気配は消えた。

(麒麟…)

咄嗟に、そう感じた。どうしてなのかわからないけど、ただ、そう思ったのだ。

(まさか…)

もう2年半前だ。家の近くで見たのは。まさか鳥取県にいるはずないだろう…。

そう思いながらも、池の周りをウロウロと歩き、そのおかしな鳴き声の動物を探すと、一番神社寄りのところに、立て看板があったことに気づいた。そしてそこで僕は衝撃の看板を見つけ、絶句した。

「霊獣・麒麟が舞う大地…」

どうやら、その後知ったのだけど、この因幡付近は、麒麟の里と呼ばれている土地だそうな…。

(ということは、やっぱり、今のは麒麟…!)

先ほどの直感は当たっていたと思う。ただ、今回に限っては姿ははっきり見えなかったし、奇妙な鳴き声を聞いただけなんだけど、僕は麒麟だと確信してる。

といっても、再会の喜びは一瞬。

(今さら出てきて、一体なんだよ…?)

すぐさまそんな風に考えてしまった。ちょっと拗ねていたというか、素直に喜べなかった。

2020年11月に見た。それは事実。でもその後、正直自分の身に起きたことが、よかったことがたくさんあったけど、何か「麒麟」を象徴するようなビックなことがあったのか?と言われると、あったと言えば個人的には色々あったけど、あまりなかったといえばなかったとも言える。

期待を裏切られた、とまでは言わないし、そもそも期待なんかした自分がアホなんだけど(期待しちゃうよね…)、もっと麒麟を象徴するようなことが起きると思ってはいた。

しかし、それでも多少は、なんだか暗く、荒れていた気持ちは慰められた。

もしも麒麟と言葉を交わせるとして理解できたならもっと良かっただろうけど、とにかく珍妙な鳴き声というだけで、意味はわからないし、そんなものはないのかもしれない、でも「自分は一人でない」そんな気はした。

夜にコミュニティのオンラインの会があったけど、とても明るい気分になれず、ただ「今はもう何もできない」と、虚ろなことを話、メンバーにも心配をかけてしまった。

そんな気分だったから、その夜は悶々と、うんざりして、悲観して眠れず…、

なんてことはなく、驚くくらいその夜は寝つきも良くてぐっすりと眠れた。

そして翌朝、気分は一気に晴れやかになっていた。

早起きしたので、朝風呂にサクッと入って、再び車を走らせ鳥取砂丘へ行った。誰もいない海岸へ降り、誰もいないので“素っ裸”の生まれたままの姿で、早朝の海で泳いだ。

風はそこそこ強かったけど、波は穏やかで、力を抜いて水に漂うだけで、自分が「自由」なんだと感じた。

色んな意味合いにおいて、自分は今何も身につけておらず、自然の中にいる。水と、風と、大地と、空。

何者でもない。

しかし昨日感じた絶望感も喪失感もなかった。むしろ何者でもないありのままの自分が清々しかった。

大島ケンスケというキャラクターや、アーティストとか、作家とか、今のポジションとか、人間関係とか、何も持っていなかった。

きっと昨日は、その事実に対して、抵抗していたから苦しかったのだ。しがみつこいていたから、恐ろしかったのだ。

しかし、手を離してみれば、抵抗をやめてみれば、とことん自由だった。

(何者でもない。大いにけっこう)

そう思った。

そして、そこに「わたし」がいた。

つづく

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