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麒麟が来た 3

続きです。

麒麟が来た #3


人は一度「本物」を知り、それに触れてしまうと、もうそれ以外は受け付けなくなるのでは?

例えば、ルイ・ヴィトンの“パチモン”を、ずっと本物だと思ってた人が、ある時から本物との質感や仕立て具合、触り心地、色合い、丈夫さなど、それらの違いを明確に理解するようにあり、その価値や良さを味わってしまったら、その人はその後レプリカを使い続けるだろうか? 一見そっくりだけど、細部が雑なパチモンを好きになれるだろうか?

本物を知るとは、この世界である意味残酷なことだなと思う。

僕もこの世界で、いくつかの「本物」を知ってしまったことで、偽物では満足できなくなったり、楽しめなくなったということは否めない。

音楽などの芸術作品はもちろん、食事や衣服や日常用品、医療などの健康に関すること。知らなければ、それ相応に満足していたものが、知ってしまうと“今さら戻れない状態”になる。

つまり、クオリティの高いものを知る人は、良質な快楽や心地よさを味わえるが、同時に、この社会に溢れた低クオリティのものにたくさん気づき、不快感を味わう運命にある、ということだ。

この時期に、スピリチュアル(霊性)や精神世界という、至極“曖昧模糊”がまかり通るジャンルでも、希少な「本物」の人たちに出会い、関わるようになったのも大きかった(彼らはその「能力」や「実績」云々ではなく、何より『崇高な志の高さ』があり、それが本物たる所以だった)。

そうなると必然的に、自分もなんらかの精神的なものや、感覚的なものを人に提供する生業を扱う以上、仕事への姿勢や動機も1から見直して、自分の表現全般を考え直すようになった。

(自分は「本物」を提供しているか?)

それまでは、多少曖昧なままでも、受け取る人がその人なりの解釈で人生を変化させたり、成長するようになればいいと思って活動してきたけど、もう、自分が自分に曖昧さを許せなくなった。想念や思い込みのスピリチュアルを蔓延させるリスクもよくよく感じるようになった。

スピリチュアル(霊性)というものは「リアル(現実)」だ。

目に見えないものを語るということは、とてもわかりずらいかもしれない。でも、ブランド品のレプリカは、わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないように、ごまかしはいくらでも通用する世界だ。

もちろん、それまでのそんないい加減な気持ちでやってきたわけじゃ無い。でも、詰めが甘かったし、大雑把だったし、動機もなんだか曖昧だった。

(本当のことだけ、伝えていこう。自分に実感と手応えがあり、疑いようのないものだけを、提供しよう)

そう誓った。ビジネスとして行う以上は、サービスとして、夢を与え、嘘も方便で元気づけたり、わかりやすさをアピールすることが大事だと嫌というほど知っていたけど、ますますそういうものと乖離していったし、これまでの人間関係も大きく変わっていった。

でも、もうどうしようもない。目の前に麒麟が現れたのだから。

そうして僕は「本物」の現実を体現すべく、自ら探求し、それを伝えるとして、ではマスター(師)から言われた僕の「段階」とはなにか?

まず麒麟は「泰平の世」の瑞兆ずいちょう だという。麒麟は森を歩いても、虫一匹殺さない、優しさと平和の存在。

2020年のコロナになってから、確かに僕の意識はそれまでと大きく変わり、人類単位のステップアップの時期が来たと思ったし、僕自身「世界平和」とか「調和」ということをすごく意識するようになってはいた。

クラウドファンディングをした理由も、「龍の唄」を聴いて、何かインスピレーションを感じてほしい、調和と協調の、平和の感覚を音楽を通して、一人でも多くの人に感じてほしい、と考えたからだ。

2万円分くらいの広告を打ったから「2万回」再生時間を超えているけど、実際は数千回ってことだろう。それが多いのか少ないのかわからないけど、今でも、もっとたくさんの人の聴いてもらいたい、映像を観てもらいたいとは思っている。

もちろん音楽作品だから好き嫌いはあるし、一流のミュージシャンにアレンジや演奏をお願いしたけど、僕の歌唱力の実力が足りてない部分はあったかもしれない。

そんな中で、さらに僕のエゴや顕示欲、承認欲求が一つもなかったとは言えない。

それでも、音楽を通して、平和を訴えたかったのは事実であり、僕は幼い頃から、とにかく人が怒っていたり、いがみ合っていたり、意地悪いことをされるはもちろん、しているのを見ることも嫌だった。

だからいつも「平和」を望んでいたのだ。僕は世界の平和を心から望むし、僕一人がどんなに豊かになっても、世界に平和でない人がいるのなら、僕は完全なる幸福にはならないのかもしれない。

麒麟が現れた。それは僕はやはり「世界の平和」のために活動すべき、というメッセージなのか?

答えはわからない。麒麟は何も言わなかった。ただ、屋根の上にいただけだ。でも、僕はそう受け取るしかなかった。

しかし、そんなやる気が削がれるように、2021年。僕は5月くらいから著しく体調を崩した。

過去にも何度か定期的にあるのだけど、呼吸がしにくくなる。若い頃はこれで死ぬ思いをした。背中の筋肉の硬直や、背骨や骨盤のずれからの不具合とか、他にも諸々の事情があるが、とにかくバリバリ動ける状態ではなかった。

そこまで悪化はしなかったし、対処法も心得ている。メンタルも安定している。そんなことで不安にはならない。鍛えられたものだ。

しかし思ったように活動はできなかったのは事実だ。多少、やきもきはした。だからひたすら瞑想と内観、そして体のエネルギーの流れに意識を向けて過ごした。おかげで、体の神秘にたくさん気づけたと思う。

怪我にしろ病気にしろ、体調を崩すというのは、必ず新しい自分との出会いがあるから、必然なのだと後になるとわかる。

そうして秋から冬になる頃に、ようやく調子が戻り始めた。

麒麟と共に、平和の世を模索する。

しかし、具体的に何をしようか? 平和のためには、まずは「一人一人が自分を生きること」だと思った。「自分を生きよう」「目覚めよう」「平和を目指そう」でも、それらを闇雲に訴えてもダメだというのはわかった。

そもそもその時期にはとっくに「ブログ」などの「テキストスタイル」の限界を感じていた。

文章で説明することは、ある意味僕の得意分野だ。はっきり言って、ただ文章を書くだけなら何万文字も書ける。僕の特技なのだろう。子供の頃から、読書感想文とか作文とか、ガリガリ君で代筆したりするくらい、文章は得意だった。なんぼでもでっちあげて原稿用紙に文字を埋めることができたくらいだ。

自分の考えを、文章にする。それだけならいくらでもできる。でも、

「文章では伝わらない」

というか、僕が伝えたいことが、文章では伝わらないようなものばかりだった。

だから「歌」や「物語」で伝えようと考えた。しかし、今度はそうなると、僕の力量不足は否めないが、そういう表現方法自体に馴染めない人が多いし、最近気づいたのだけど、そもそも、ごく一部の人を除き、僕にそんなものを求められていなかったと思う。

だけど、当時はできるだけ表現方法をテキストで「〇〇をやると平和になります」という形から変えていこうと模索した。

もちろん、テキストスタイルでロジックで説明するのは得意だし何より「楽」だった。でも、そうじゃない表現で伝えたかった。まあ、これも最近気づいたけど、自分の「エゴ」だった。

そうやって、2022年、2023年と、やや“迷走”しながらも、エゴの欲求に無意識に振り回されながらも、とにかく「目の前の人、もの、こと」に集中していった。

しかし、僕は気づいてしまったのだ。自分の活動が、いかに上っ面で、エゴに塗れて、何より自分自身に才能がなく、何の個性も持ち味もない、つまらない男だと。

絶望した。とにかく深い絶望だった。今年の7月だった。

だけど、砂漠の荒野で見たvision。それが「何者でもない僕」を思い出させてくれた。僕はもはやアーティストでも、作家でもない。ワークショップ講師でも、瞑想講師でもない。

何者でもない。何もできない、自分。

しかし、当時のnote(砂の荒野でvisionを見る)には書いてなかったことがある。

実は、僕は絶望し、死んでしまいたいくらいに打ちのめされた翌日に、何者でもない自分の自由を謳歌できたのは、これが関わっている。

何者でもなく、何もできない自分。まだ、それを受け入れられず、立っているのもやっとなくらい、打ちのめされて、重力が増したかのように体は重く、気圧が変化したのかというくらい、空気が重く、呼吸も苦しく感じられた。

そんな時にまた、麒麟が現れたのだ。

つづく

☆ イベント・ワークショップ

* 大阪の「聖音瞑想会」は2月24日(土)14時〜を予定しております。

2024年年明けに、北国で「祈り」という行為に秘められた叡智を学びませんか?(残り3名)

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