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人生は思い通りになる? 人をコントロールできる?

とある昔話

まず、お釈迦様にまつわる、インドの昔話を紹介します。有名な話なので知ってる人も多いと思いますが……。


ある女性が、我が子を病で亡くしました。まだ赤子でした。

赤子の前に、妊娠中に夫が亡くなり、そして子供まで失いました。

その女性は「生き返らせる薬をください」と、村の家々を回りました。彼女の事情を知る村人たちは同情しました。しかし、人を生き返らせる薬なんてありません。

そこで、お釈迦様に「我が子を生き返らせる薬をください」と懇願すると、お釈迦様はこう答えました。

「芥子の実でその薬を作れます。ただし、その芥子の実は、今まで一度も死者の出ていない言えからもらう必要があります」

芥子の実はどこに家にでもある香辛料でした。女は家を回りました、しかし、どの家にも芥子はあれど、誰も死んだ人のいない家というのはありません。

女は家々を訪ね歩くうちに気づくのです。人は必ず死ぬし、家族が死んで悲しいのは自分だけではないと。自分だけが特別な不幸に遭ったわけではないと。

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そして女は釈迦の弟子になりました。キサーゴータミーと言う名の尼僧で、この逸話は経典に載っているそうです。

この話と、タイトルの「人をコントロールしようとすること」は、一見脈絡ないかもしれませんが、とても関連あります。

死んだ人間を生き返らせる、というのはこの世界ではどう足掻いたってできないことの一つです。

同時に「死なないで生きる」こと(不老不死)も無理です。肉体は必ず滅び、機能を停止します。

古来より、この二つは多くの人々が挑戦してきたでしょう。不老不死や、愛する人の死を受け入れず、生き返らせようとしたり。

この地球でのルールなのかもしれませんね。あなたがサッカーをやるのなら、手を使わないとか、オフサイドしないとか、色々とルールを守らないとプレイできないように、地球で人間をプレイする上で、厳格なルールがある。

この世界にはルールがある

もちろん他にも、たくさんのルールがあります。

・ものは上から下に落ちる。
・食事を摂らないと生きていけない。
・排泄しないと生きていけない。
・眠らないといけない。

このような肉体、物質レベルだけで、たくさんのルールがありますし、他にも感情とか思考もシステムがあり、わかりやすいのは恋愛や性。男が女性の裸を見たら興奮するとかもそうです。

このように「自分のこと」でさえ、実は我々はまったく“思い通り”にできてないというか、コントロールできない部分がたくさんある、ということです。

上の逸話は、「死」というもののこの世界の絶対ルールと、そこへ贖おうとする人間のエゴの話です。
(母の愛、といえど、我が子を生き返らせたいというのはエゴであり、欲です)

だけど、人は勘違いしてしまう。手足を動かし、自分で移動したり、自分で考えたり、計算したり、記憶したり、そのように自己認識と操作可能は部分がたくさんあるからかもしれませんが、漠然と、無意識に「コントロール可能」だと思ってしまっている…。

明確な区分やデータはないですけど、多くの人を見ていてそう思います。

そんなこと「考えたこともない」と思いますが、考える必要がないくらい、漠然とコントロール可能と思っていて、自分が大きなルールやシステムに縛られているとも思いつきません。

証拠を一つあげるとするのなら簡単です。

「思い通りに行かないとストレスに感じる」

ってことです。

病気や怪我などの身体的苦痛のにおけるストレスではないく、単純に「思った通り」「考えた通り」に進まず、コントロールできないと、人はストレスを感じます。そんな経験あなたもたくさんあるでしょう?

ストレス度合いと、その人の性質によってですが、悲しみになったり、怒りになったり、心身の健康を害するレベルにも発展します。

どうしてでしょうか?

思い通りにならないとストレスを感じる

もしもハナから「物事は自分の思い通りにはならない」と思っていたとするのなら、完全に起きたことを受容し、享受するだけだったら、それがネガティブな出来事であろうと、ジレンマはないはずです。ただ、出来事が起こった、それで終わりです。

なのに、思い通りにならないと腹が立つんです。

ちなみに目の前の「思い通りにならない」時は、動物にだってあります。目の前に食べ物があるのに、食べさせてもらえない、とか。猿くらいの知能だと、あからさまにイライラします。

人間だって、カフェでコーヒーを頼んだのにやけに時間がかかったらストレスになるし、サランラップが途中で切れて、ぺたりと芯に張り付き、ラップの切り口を見失ってしまった時とかなんて、それはもう膨大なストレスが発生します(これ、個人的にイライラする状態トップ3に入ります…)。

しかし、人間はそのような目の前の「思い通り」だけじゃなく、未来への「思い通り」にこそ、一番のストレスを感じるのでは? 自分の未来が、思い通りに行かないと予想される時、です。まだ起きてないのに、イライラしてストレスになる。

これは別の言い方をすると「不安」とも言えます。

未来への思い通り、って、つまり「予想」「予定」「期待」「憶測」です。これらの展望がちょっとでもネガティブに偏り、期待してたように運ばない兆しが見え、

「このままでは思った通りに行かないのでは?」

となると、それだけでストレスです。

どうしてストレスなのかわかりますか? 腹が立ったり、不安になるかわかりますか? 
お猿さんが目の前の餌を取り上げられた時と一緒です。「食べれる」と思っていたのに、「食べれない」からストレスなんです。

つまり、未来のこととは言え「自分の思い通りにできる」という、ある種の傲慢な考え方です。

確かに、自分の人生は自分で創る、という側面はあります。それこそが人生とも言えます。でも上記したように、人生には「コントロールできる部分」と「コントロールできない部分」があり、それらが編み物のように複雑に絡み合って、その人の人生という総体が出来上がります。

どうしてこんな話をくどくど書くかと言うと、もしあなたが現状になんらかの「ストレス・不安」を持っているとしたら、それはあなたが「未来を思い通りにできる」という、やや傲慢な考え方があるからかもしれませんよ? ってことを知ってもらいたいからです。

さて、自分のことはわかりましたが、「他者」はどうでしょう?

他者こそ思い通りにしたい


ここで言う他者、というのは「自分以外の全ての人」です。

自分の人生を思い通りにしたい…。これ、みんな思います。漠然と思ってます。

これは仕方ないことですし、自分の生活を快適にし、人生を楽しみに、さらに深めれば人格の成長、霊性の向上、魂の浄化など、途中からスピリチュアル的な話になりますが、その「未来への欲求」があってこそ、です。

しかし「自分の人生」において、「関わる人」に対しても、自分の思い描く通りに動いてほしいと、人は思ってしまいます。人はなぜだか、自分の人生の欲求に「人を巻き込む」癖があります。

典型的なのが「家族」ですね。

自分の身近な人ほど、自分の大切な人、自分が好意を寄せる人にほど、自分の思い描く、理想の姿であってほしいと期待してしまいます。

そしてそのうち、

「思ってたんと違う!」

と、結婚した人なら誰でも思うでしょうね(笑)。期待と妄想を胸いっぱいに膨らませて結婚。最初はお互いカッコつけているけど、慣れてくるとボロが出る。そこで、予想してた姿とのギャップに傷ついたり、腹立てたりします。

余談ですが、最近、友人が「今日は結婚記念日なんで早く帰ります」と言ってて、「おめでとうございます」と伝えたら、「結婚記念日であり、忍耐記念日ですわ」と冗談で言ってましたけど、とにかく結婚生活なんて「思ってたんと違う!」の連続で、その忍耐が問われます。

僕は結婚生活17年目ですが、どれだけ忍耐に及んだことか…(遠い目…)

しかし、忍耐以前に、実は勝手に期待して、勝手に腹を立てている、とも言えるわけです。一人コントのようなものです。

とにかく結婚に限らずですが、人はあなたの期待通りに動きません。まれに、期待に応えてくる人もいますが、すべて「お望み通り」ってわけじゃないでしょう。

恋愛と同じです。こちらが好意を寄せ、相手に理想を抱いても、その人の好意や恋愛感情がこちらに向かってないのなら、それは片思いで終わる恋です。

家族だからこそ


片思いの恋なら諦めつきますが、人はどうしてか、家族となるとこれが諦められない。

そりゃそうです。片思いならその相手と距離をとって、忘れるようにすればいいのですが、家族は基本的に会いたくなくても顔を合わせるし、自分の人生に大きく関わっているから、遠ざけることはできません。物理的に離れても、やはり心から消し去ることはできないでしょう。

あなた自身、親とか教師から「〇〇しなさい」とか「いい子でいてね」と期待を受けたことあると思います。その期待や希望が、自分の欲求や希望と同じ方向性ならいいのですが、それが違う場合はむちゃくちゃ嫌ですよね? だって、勝手に相手の理想を押し付けられるんですから。

でも、親と子供とか、教師と生徒のように立場的に逆らえなかったりして、仕方なくそっちに進むとかなりストレスです。

(未熟な)親や教師は、自分の立場を利用して、自分より社会的に弱い子供相手に、要求を押し付けます。そして、子供が思い通りにならないと「腹を立てる」のです。

「あなたのためを思って!」

と、必ず言います。しかし、それは本当の気持ちも含まれているけど、ほとんど「嘘」です。

だって、ただ「思い通りにしたい」だけです。つまり、自分のためです。エゴでしかなく、そのエゴを「あなたのため」という愛や正義の大義名分をつけて正当化しているだだけです。その自分の中の傲慢さを知るべきです。

パワハラ・モラハラへのストレスもあなた次第


ちなみに、

「でも、夫からひどいこと言われるんです」
「上司からパワハラめいたことを言われます」
「歩いてたら、すごく嫌な人に会ったんです!」

みたいなケースはどうするのか? についてお答えします。

まず、痛み(心の痛みも含む)とか、瞬間的な感情は仕方ないです。ワンちゃんだって飼い主が尻尾を踏んだら瞬間的に怒りますよ。だからそれも一種のストレス反応ですが、上記のケースだと、大体がずっと引きずってストレスを感じ続けます。未来への不安もあるけど、過去を脳内リプレイさせて、毎度毎度傷ついてる人ってすごく多いですね。

で、このような「人から嫌な言動をされる」っていうのも、実は同じです。

期待です。要求です。

「何も要求なんてしてません! 普通にしててほしいんです!」

と言われるかもしれませんが、その「普通にしててほしい」という思いが既に期待であり、もっと言ってしまうと「私は不当に扱われるべきではない」「私は尊重されるべきである」という無意識の要求をしているのです。その要求が通らないから腹が立ちます。

夫だろうが上司だろうが、どこかのお店の嫌な態度の店員だろうが、電車で足を踏みつけた人だろうが、すでに「自分は痛みなく、快適に過ごすべき」という期待があるから、瞬間的な痛みや感情以上に腹が立つし、ストレスに感じるのです。

だから、ある種の「諦め」は必要です。

「この人はこういう人だ」と思うことです。どうしたって、そういう嫌な人はいるし、マウントすることでしか自分を示せない人っています。

もちろん、言うまでもなくモラハラもパワハラも、コミュニケーションとしては最悪ですし、そのようなマウントを仕掛けてくる相手には、真っ当な対処は必要ですよ? 対処についてはこのテーマじゃないので論じません。

人と人の世界

この世界の絶対ルールとして「人と人が関わり、交流することで人生は進む」という法則もあります。

つまり、人と関わらないというのは、人生ではありません。

しかし人と関わると言うことは、常に「期待」と「期待」のぶつかり合いです。それを要求しようとしまいと、必ずと言っていいほど、他者へ「自分の思った通り」の姿を描いてしまいます。

ただそれをやってる限り、本当の交流、深い交流って生まれないと思います。なぜなら、期待や思惑を超えたところに、互いの以心伝心や、阿吽の呼吸とも言える、神秘的なコラボレーションが起こるからです。

まず、自分の中の発生する期待と、他者への要求を常に手放し続けることです。そしてありのままのその人を見つめることです。

そして、あなたに寄せられるさまざまな期待や要望に答えるのではなく、ありのままのあなたで在ることです。

ありのままのあなたと、ありのままの目の前の人との出会い。そこに真の交流があります。

☆ ワークショップ

つながるからだ、つながるこころ  

こちらのアメーバブログも参考に

聖音瞑想会 大阪 2月24日

歩く! 山を歩き、五感を開く

癒しと調律。ボイスヒーリング「調う」 2月18日(日)

☆Youtube更新


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