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されど丸刈り。

「たかが丸刈り、されど丸刈り」というお話。

時間がない時によく愛用している1000円カット。丸坊主8㎜は10分で終わる。風呂場で綺麗に剃れば30分以上かかるし、湯冷めして風邪ひくこともしばしばなので、さくっと綺麗にできて良い。
中途半端に伸びた坊主(ハゲ)ほど見苦しいものはない。

近所の1000円カットは、一つの社会の縮図である。それを垣間見るのも楽しい。僕が学生の頃から、なんらシステムも変わってない。簡易的な椅子と鏡。スタッフの最低限の道具。流れるFMラジオ。お客もどんよりとした爺さんや、もさっとした男性ばかり(落ち着くね)。

そしてスタッフも千差万別だ。派遣社員なのか、なかなか生活も厳しいだろう。1000円の何割が手元に入るのかわからないけど、大変な作業だ。そして、美容室の意識高い系の方々とは真逆の存在感を醸し出す。

まず、目が死んでるおじさんやお兄さん。「なんで俺がこんなところにいるんだ」と覇気のない兄さんなんかは、昔の自分を思い出す。おじさんスタッフも、一瞬独特や雰囲気で、まずスーパーのレジ打ちなんかできないタイプだろう。
あと、おばさん。きっと旦那さんの散髪をしながら小遣い稼ぎで資格?でもとって勤めてるのか。おばさんは話好きだから、ちょっとした会話しながら和むこともある。また、ストレスまみれのおばさんもいる。ただでさえ狭いお店の酸素が全部なくなるくらいピリついている。早く帰りたくなる。

割と和む数人のスタッフがいる。沖縄系の同世代の男性スタッフは、無口で目が死んでいるけど、僕が必ず「さっぱりしました!ありがとうございます」と明るく言い続けてきたのが功を奏して、最近は会釈をしてくれるようになった。
そう、こちら側のあり方も大事なのだ。例え、最初の1秒で「うっ!」と感じる強者でも、笑顔で挨拶し、髪の毛を切ってもらっていることに感謝し、喜び、ありがとう、助かりました!と伝えることが大切だと思う。
相手はどう思ってるのかわからないけど、僕はそれで「居場所」を作ることができる。半径1メートルから。

丸刈りは簡単な作業である。バリカンで1周ないしは2周、ぐるっとカットするだけだ。スタッフによっては3周目で小型のバリカンで襟足を揃えてくれる。ものの5分くらいなものだ。
しかし、その簡単な作業にも、スタッフの個性や経験値、思いやりが直に感じられる。死んだ目をしたおじさんのカットが意外と丁寧だったり、明るいおばさんスタッフは、1周で雑に終わらせたり、神経質なスタッフは、毛が一本出てるのも気になって時間がかかりすぎたり。

一番簡単な同じ作業にも、これだけの人間性が出るのだ。これって、いろんなことに共通してないだろうか。

さて、今夜の話。
時間は18時。ちょうど混む時間かなと思って扉を開けたら、誰もいなかった。そして出てきたのは70歳前後のおじさん。(おじいさん?)。特に愛想はない。ちょっと貧相な顔立ちをしてる。覇気ない系の部類のスタッフだ。スナックのカウンターで、枝豆と熱燗が似合うようなおじさんだ。

「丸坊主で」とシンプルに伝え席に座る。おじさんがバリカンを手に取り、静かに剃り出す。

おやっ・・・。
僕は心でつぶやいた。何か違うぞ。
すーーーっと頭を1周目。頭皮に触れる指先は、まるで陶器のフランス人形のように繊細で冷たい。

1周目でリズムが止まり、髪の毛の吸い取りに入った。(え!もう終わりなのか?)と戸惑った矢先、2周目に入る。先に吸い取ってから、また剃るってパターンは、何千回のうちでも初めてだ。

なるほど!
僕はおじさんを全信頼することにした。背筋が伸びる思いで、少し緊張した。おしゃべり好きなおばさんスタッフとは、同じ椅子と同じ機材でも次元が違うのだ。

2周目の剃り込みは、実に優雅だった。おじさんは沈黙していく。黙っている、というのとではない。集中した沈黙なのだ。おじさんの指先も、頭皮の上でバレエの練習をしている少女のように、慎重かつ確実に動き回っている。冷たくて心地よい。

3周目で襟足剃り。小さいバリカンで、これも丁寧に剃っていく。「この人は百戦錬磨だ」と感心する。
自身の頭皮の凹凸が、おじさんのバリカンと指先によって、ありありと目に浮かぶ。僕は大学で彫刻専攻だったから、より立体意識については細かい方だ。おじさんから伝えられる視点により、今なら完璧な頭像が作れるだろう。

最後は眉毛のカットだ。長さを揃えるだけなので、小さなバリカンで、櫛からはみ出た部分だけ、ジョリっと切ればよいだけの話。しかしおじさんはここで、「マイハサミ」を取り出し、フリーハンドでさばき出した。時々、切りすぎじゃないか!?と焦ることもあった。なぜならかつて、神経質なスタッフに、眉毛をハサミで全部切られてれてしまったことがあったからだ。(眉毛をそる)ということだけに神経を注いだスタッフは、(顔のバランス)という肝心な美意識を全無視した・・という結果だった。あれはもう勘弁だ。

せっかく尊敬していたこのおじさんも、ここで弘法筆をあやまるか・・と思っていたら、終わってから鏡を見ると、短すぎず長すぎずの、顔の全体からしても、バランスのよい眉になっていた。ここで心底、「まいった!」と思った。

カットが終わってからお礼を伝えた。「もう何年もここに通って丸坊主を頼んでますが、こんなに丁寧にカットしていただいたのは初めてです」と。おじさんは、意外そうな顔をして、にっこり微笑んだ。それもそうだろう。たかだか丸坊主くらいで、感心される事もないだろうし。みんなお客は、丸坊主をなめている。

そしておじさんに質問した。「もう長いことこの道でされてるのでしょうね」。
おじさんは「そうですねぇ・・美容師時代からしても、、3〜40年ってとこですかねぇ」。気恥ずかしそうだった。

僕は「ありがとうございます。カットをされて心が整いました」と頭を下げた。おじさんは、狐に摘まれたような顔をしていた。そして、そのあと後片付けを始めた。

店から出たら、ちょうど空も暗くなっていた。秋風が心地よく、金木犀の香りが漂ってきた。とても好きな香りだ。

昨日の維摩経の勉強で、お釈迦さまの話したエピソードを思い出した。
お釈迦さまは、悟りを開いた在家信者の維摩について、弟子にこう語る。「維摩さんは、香りが悟りにつながる仏の国からやってきたんですよ。この国とはまた違った悟りの方法に溢れた国からです」と。
つまり、悟りとは、修行や経典を暗記し実践するだけでなく、「香り」からも悟れるし、「音」からも「光」からも悟れるのだという。真実は無限にあり、1つにこどわらず、柔軟に世界を見なさいと言う教えだそうだ。

帰り道、ゆっくり金木犀の香りを嗅ぎながら、「ああ、あの床屋のおじさんも、維摩さんみたいに、別の国から来た仏様の変わり身なんだなぁ」と思った。

おじさんの境地は、おじさん自身も気づいてないだろう。彼はただ髪を切ることに集中して、全うしてる。当たり前のことなのである。
そして、満足してることだろう。誰かと比べたりしない。やるべきことを徹底して、自分だけの美意識を持って髪を切ってきた人生だったのかもしれない。

当たり前ってすごい。
そこに、美しさが滲み出てくるのはすごい。
いつもの店が、別の店に変わるような。やはり大切なのは、環境ではなく、1人の個の力なのだろうな。

素敵な夜だった。本当に。


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