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精進料理

今日は精進料理をいただきに出かけた。最初に行きたいなと思って2年越しになる。
風の強い日だった。土埃が舞い、やっとたどり着いた境内の竹林も、大きなうねりと共にザザザザと音を立て「出迎えて」くださった。あたり全体が揺れるようだった。
案内された部屋は、広い講堂のような場所だった。かつてお寺の幼稚園の集会場だったらしい。天井が高く大きな暖炉があり部屋は暖かい。天井まである薄い窓ガラスは、強風で震えるように音を立てている。竹林のうねりは室内まで聞こえていた。

静かに料理人の方が入り、アシスタントの方が抹茶を運ぶ。今日の予約は僕らともうひと組だった。その3人客の1人のマダムは何回か訪れているらしく、英語で連れの男性に説明をしていた。
抹茶と和菓子から、田楽の料理に入る。僕は竹林をただ見つめていた。集中したかったが、行かんせん隣のお客の会話が聞こえてくる。広いだけに響くのか、それともただ大きな声だったのか。「〜億の物件が・・」など、セレブの極みのような内容で、この空間と静けさの中で、異様な生々しさを放っていた。

精進料理が運ばれていくうちに、心はどんどん静かになっていった。このガラスの震える音も、竹林の揺らぎも、薪が燃えて弾ける音も、隣の会話も、一つの自然音に変わった。そしてそれらは、爆音と呼べる代物なのに、なぜか「静かだな」と感じたのだ。
静けさというものを、禅の教えでは、「音が無い」のではなく「音が在る」というそうだ。静けさが在る。。ではどこに?
この自然音の隙間に在るのだろう。まるで、ガラス越しに降り注ぐ木漏れ日の隙間に、うっすらと影があるように。葉と葉の間に、「それ」は確かに存在しているのだ。

昔なら、静寂さを壊すような出来事に、不快感を覚えただろう。隣のお客たちは、1時間半あまりの滞在時間に、一度も沈黙することはなく、家族のことや、物価のこと、今まで食べた精進料理のことを話していた。彼女らが、仏性に生きる修行の一環としての「精進料理」の意味をどこまで感じているのかもわからない。
ティクナットハン禅僧は、「食べるために食べる」という。マインドフルに食べることに集中せよと伝える。少なくとも、僕の耳には否応なく隣の会話が聞こえてくる。かと言って席を代えるわけにもいかない。
しかし、それで良いと思えた。それこそがまさにマインドフルネス。頭の中の雑念とともに、それに気づき、反応せず、呼吸とと共にいるということと同じではないかと。
雑念を完全に消すほど、まだまだ修行が足りないことは自覚している。それでも、集中してそれらと共にいると、雑念雑音に込められた深いものに気づくことがある。

一つは、静けさとは、音のある世界、感情のうねる世界にこそ存在するということ。
一つは、人生とは様々で、それぞれに唯一無二の道を歩んでいること。

僕はそれらとともに、ただ料理を味わっていった。

料理長は、最後までほとんど表舞台には立たなかった。演出も説明も最小限だった。まるでおばあちゃん家でご飯を食べているような、当たり前の感覚になった。特別なことは何もない。
アシスタントの方に、少し質問したら快く答えてくださった。その中で、お寺の存続の危機と、関係者のさまざまな苦労と歴史、そして一抹の悲しさを感じざるを得なかった。この80歳に近いであろう料理長の女性の後を継ぐ人はいないようだ。ひっそりと、この場所は時代に飲み込まれて、静かに消えていくのかもしれない。

本音を言えば、精進料理をいただくだけでよかった。しかし、どうしてもその周りの人々の人生模様まで見えてしまった。それぞれに短編小説が書けそうなくらいの、奥の扉が見えたのだ。
これは、東北の古い寺院でいただいた、僧侶たちの精進料理の印象とはだいぶちがう。その料理はまさに、作務の結晶のような、素材は素材だけの、凛とした料理だったからだ。

それでも、我が心に止まり続ける、一種独特の静けさはなんだろう。色にするなら紺色、うら寂しい深い青。なぜだろう。
料理長は少ない会話の中でこう言った。「諸行無常を感じてください」。禅とは無常。その無常の片鱗を感じたのだろうか。

部屋を出て外に出ると、風はおさまっていた。13時すぎの日は高く、麗らかさが宿っていた。ボランティアの力でなんとか清掃して、猫の手も借りたいくらいだという境内は、強風の影響もあってか、だいぶ荒れていた。それでも、世界最後の砦のように、所々に静謐な気配は残っていた。

山門をくぐると、駐車場には一台の真っ白なポルシェが止まっていた。午後の陽を浴びて陶器のように光っている。セレブの象徴のように、ドンと居座る不釣り合いの存在にも、異国のエンジニアたちが誇りを持って作り上げた背景を感じ取った。
料理にしたって、車にしたって、絵画にしたって、同じこと。誰が手に取り、どう利用し、どう感じるのも、全くもって自由なのだ。まるで神仏は全てに平等であるかのように。不平を言うのは自然界で人間くらいなものだろう。
僕は、たまたま作る側の人間になった。魂をこめて絵を描くだけでいい。本当の静けさは、その行為の中に存在しているのだから。

おしまい。

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