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五百羅漢と雨、そして1分の重み。

明日の盛岡市動物園でのワークショップのために前日入りし、ホテルのチェックインまでの時間、ふらっと盛岡市にある報恩寺の五百羅漢にいくことにしました。2011年から岩手には通っていますが、初めて訪れます。

立派な山門

この日の夕方、盛岡市は曇り空だったのに、五百羅漢のお堂に入った途端、ドドドーッ!!っと滝のような雨が降り出しました。
誰もいない、僕1人と499人の五百羅漢と釈迦如来。あたりは深く静まりかえって、五百羅漢が仏法を語る喧騒と、釈迦如来の微笑みが満ち溢れて、この世かあの世かわからなくなりました。

499体の羅漢と釈迦如来

帰りに境内で、やれやれ傘もないしホテルまでどうしたものかと思っていたら、住職が傘を貸してくださり、お礼の言って山門を潜ると、雨はピタッと止みました。
はてさて、この現象はなんなのでしょう・・。理由はわかりませんが、あの圧倒的な静けさは、今も心に刻まれています。

雨上がる。

さて、今朝のnoteにて「逃した1分」のことについて書きました。そこで、1分をどう生きるかと考えていました。そして今日、さまざまな1分に出会いました。
出かけるまでの1分。電車を待つ1分。思考に流される1分と、まとめる1分。
盛岡駅に降り立つと、時間がゆるやかになりました(確実に!)。バスを待ち、乗り降りして歩く。時間がどんどんゆっくりとなっていきます。そして報恩寺に入り、五百羅漢のお堂に入った途端の豪雨。
僕の時計を見ると、拝観時間まで残り数分でした。

01:46

しかし、1時間でも2時間でもあるかのごとく、濃密で静寂な1分でした。

これは何を意味してるのか、理解しなければなりません。きちんと考えて、何かが起こるべくして起こっていることを突き止めねばならないと思います。

釈迦如来

五百羅漢と共にいるのが、釈迦如来。
釈迦如来が本堂にあるのは、かなり珍しいです。だいたい阿弥陀如来が多く、たまに薬師如来。如来三像の中でも、釈迦如来。

小説ブッダ ティクナットハン著

今、たまたま読んでいる本が、ブッダに弟子入りする牛使いの目線で物語が語られていく本なのです。
まさに、五百羅漢のうちの1人とシンクロして、自分の求めているものが肉薄してきます。背筋がゾッとする思いです。

駅から降りて、ホテルまでのわずかな時間に、ふと報恩寺に行こうと思ったのはなぜだろう。
なぜあの場に釈迦如来がいて、羅漢がいて、豪雨とともに過ごしたのだろう。不思議でなりません。
誰か教えてほしいです。

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