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娘の誕生日

娘が1歳になった。
いろんなことが思い出される。そして忘れていることもたくさんある。
娘が成人するまで17年。生きているかどうかもわからない。そもそも、数年前までは娘が産まれることすらわからなかった。
過去も未来もわからない。ただ懸命に、今というひと時を、子供たちと向き合って刻んでいくだけだと思う。
アデノウイルスで、初めて体験する体調の悪さや、目やにや鼻水に苦しむ姿に心を痛め続けた。それでも今日を生き、また次の日、次の日と、回復していった。10日後にはまた元気な姿に戻った。戻ったというより、さらに元気になった。食欲も増えた。
禅の教えで、1日の初めに真っ白なカードを仏様からいただき、そして夜になればそのカードをお返しする。次の朝になれば新しいカードをいただくという。
今日の娘は昨日の娘と違うし、明日の娘もまた違う。娘は娘の人生をしっかりと歩んでいく。彼女は真っ白やカードをどう埋めていくのだろう。僕にはわからない。ただ、なんとなく感じるだけだ。

不思議なものだ。自分に家族がいることが。家族とは恐怖だった。1人の方がよっぽど静かで穏やかだ。それは今も変わらない。
しかし、家族と過ごす時間も変化が出てきている。家族は恐怖ではなく、別の世界に飛び込むものでもなくなった。自分の世界の一つの間取りになった。自然体になり、静けさが増した。

娘の額に手を当てる。まだ小さい。おでこから、後頭部の綺麗な湾曲を辿る。命がここにある。抱っこしろと泣く。抱えると満足そうに笑う。そのうち眠くなってぐずる。絵本を読むと集中する。
誕生日に用意した衣装より、星の形のステックに興味を示す。振り回して楽しそうだ。あー、とか、うー、とか言っている。
かつて高校の美術教師は、いろいろ屁理屈をこねてデッサンをしない僕に、「あーとかうーとか言いよっせ、早よ描かんかっ!」と鹿児島弁でなじった。娘の言葉からその記憶を思い出し、(あのときもう少しデッサンを書いていれば、道も違ったのかな)と痛感する。必死にデッサンを修練した仲間たちのほとんどは、絵を描くことを卒業し、僕だけは「居残り授業」のように、30年後も毎日毎日絵を描いている。これしかできないのに、描いても描いても全然足りない。逆にますます遠ざかっていくようだ。なぜだろう。子育てが〜とかなんとか屁理屈こねているからかもしれない。ちっとも成長していない。

娘が1歳。
奇跡のような一年。神様、ありがとう。

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