【エッセイ#5】しなやかな技術ー千葉雅也「私小説の脱構築三部作」について

哲学者の千葉雅也さんが書いた小説は、何度読んでも愉しい小説です。それは、自意識と周りの世界の描写が絶妙なバランスをとって組み合わされて、読者を元気な気分にさせるからです。
 
『動きすぎてはいけない』、『現代思想入門』といった素晴らしい哲学書や、エッセイ、紀行文もある千葉氏の、現在刊行されている小説は『デッドライン』、『オーバーヒート』、『エレクトリック』の三作です。どれも、千葉氏を思わせる男性主人公の日常を追った、いわゆる私小説に分類されるでしょう。千葉氏は、これらをまとめて、「私小説の脱構築三部作」とご自身で呼んでいます。
 
「脱構築」というのは、20世紀後半のフランスの哲学者ジャック=デリダが使いだした用語で、現在は様々な意味で用いられますが、私はここでは「善悪の対立をものすごく緻密な論理で崩していく」ぐらいの意味で使いたいと思います。デリダの哲学書では、とんでもないレベルの読み込みで、過去の思想の勇ましい論理(○○は駄目だ、だから××にすべきだ! のような)が崩されて、一種の空白状態を作り出します(はぐらかすという意味でなく)。
 
千葉氏の小説でも、言葉によって、様々な対立が崩されていきます。デリダが哲学の論理によってそれを行うとすれば、千葉氏の小説では、登場人物の行動原理と描写によってです。そして、何が崩されるかと言えば、世の中の様々な常識や、「私小説」というジャンル、もっと言うなら、「自分を憐れむこと」だと思っています。
 
千葉氏の小説では、ご本人を思わせる人物が出てきます。『デッドライン』では、修士論文を書きあぐねる東大の大学院生、『オーバーヒート』では、関西の大学に勤務する人気哲学者、『エレクトリック』では、田舎の高校生。彼らは自分の内面を語りますが、決して独りよがりな饒舌ではありません。現代思想に関して自問自答したり、周囲に苛立ったり、SNSの反応に一喜一憂したりします。しかし、彼らは「自分を憐れむ」ことだけはしません。
 
私小説に多いのが、自己憐憫によって自分の周囲と世の中を呪うということなのですが、千葉氏の小説にはそれが不思議と希薄です。「自分を憐れむ」とは、自分を善とし、他の何かに悪を押し付けることですが、そうした善悪の対立が崩されている。つまり、社会やSNSや私小説の常識がそこでは回避されているのです。
 
ではどういう仕掛けによって、それを回避しているのか。勿論、主人公たちが扱うデリダやドゥルーズといったいわゆる「現代思想」によってであるとも言えます。が、それについては、千葉氏を含めて、世の中に優れた解説書が沢山あるので、ここでは、別の仕掛けについて話したいと思います。それは、不思議なことに、男性との「性愛の描写」です。ゲイの主人公が、男たちを欲望し、そこに向かう時、千葉氏の小説は活気づくのです。
 
映画監督のバッド・ベティカーは、「セックスは人生で一番美しいものだが、映画の中ではそうじゃない」と言っています。私も同感で、未だに映画や小説での直接的な行為描写が苦手です。といっても、ポルノグラフィが嫌いというわけではなく(逆です)、普通の映画や小説の性愛描写に表れてくる自意識のようなものが、何か鼻についてしまう場合が多いのです。
 
千葉氏の小説の中では、あまりそうしたものを感じません。というのも、主人公は、男たちを欲望する際、様々なことによって、気を散らされます。エイズに感染することへのケア、口内炎、ぬめっとしたローション、そして、ハッテン場での男を選ぶときの、儀式のような受付の人とのやり取り、男を買いに行った場所の、理想とは程遠い、みすぼらしさ。こうしたものによって、性愛の高まりは絶えず中断していきます。
 
頭の回転の速い主人公は、男性を求めれば求めるほど、自分の周りに対応しなければいけなくなります。そうなることで、自分の意識に没頭する官能描写が薄れ、読者を小説の中に誘う。主人公に同化するわけではなく、主人公が感じたことを外側から体験することができる。それが、活気のある雰囲気に繋がるのです。
 
そして、そこから立ち現れる、いなたいユーモアもいい。『デッドライン』で街のイケメン達を見て、こんなにイケメンならイケメン同士で付き合うことができるのに、女と付き合っているなんで僕を騙そうとするドッキリなんじゃないか、と妄想する場面や、『オーバーヒート』で、男を買う際の「すげえいいな、と思った。こんなガサツな男と付き合うのは無理だ。だがすげえいいなと思った。」という爆笑ものの心的独白は、何度読んでも愉快な気分になります。それは、主人公の決して独りよがりにならない性格から現れるものなのでしょう。
 
『オーバーヒート』は特に、構成の妙でそうした効果を愉しめます。前半は、新しく越してきた大阪という立ちや、今の社会でのLGBTの扱われ方やSNSに苛立って、自意識とアイロニーに満ちた独白が続きます。しかし、ストレス発散のために、歌舞伎町に男を買いに行くところから小説は活気づき、パートナーとの他愛もない微笑ましい痴話喧嘩で頂点に達し、不思議な余韻を残すラストまで、程よいスピード感で駆け抜けていきます。
 
最新作の『エレクトリック』は、高校生の時代を描いていること、そしてそれまでは一人称だったのが、三人称で「志賀達也」という男の子を追っていることにより、そうした描写が薄れて、ある意味清澄な雰囲気となっています。しかし、これまでと同様に自意識にこもった感触はなく、いい意味で自然体の小説になっています。作中でライトモチーフのように出てくる、スピーカーを組み立てるという行為が性愛描写の代替となっていたのか、それとも千葉氏が何かを変えようとしているのか、それは今後を待つ必要があるのかもしれません。
 
個人的に一番好きなのは、処女作の『デッドライン』です。ここには、多分ゼロ年代半ばくらいの、ほわんとした、どこか宙に浮いているような雰囲気があります。途中、まるで幽体離脱したかのように視点の変わる描写や、一体誰が見ているのか分からない幻想の描写は、この作品だけのものでしょう。それらが、作者の技巧ではなく、あの時代の雰囲気の総体を掴もうとしたように見え、この小説自体の柔らかい光に包まれたような美しさに繋がっている、というのが、私の好きな理由です。
 
『オーバーヒート』の中には、主人公の「僕は大地のようになりたい」という言葉と「僕は大地に帰らなくていい」という言葉が同居しています。もっとも、前者は「大地」という名前の男娼を指すのですが、ある意味、千葉氏の小説はこの、人間にとって切り離せない「大地」に、同化することへの逡巡にあるのかもしれません。
 
つまり、千葉氏の小説を読むということは、新しいスニーカーを履いて、街を歩くことのようなものかもしれません。足の裏の柔らかさと、大地の反発を感じ続けながら、しなやかに前に進むこと。自分の周りの世界の反発や反応を受け止めながら、なおも心地よさを失わないこと、それこそがつまり、しなやかに生き続けていく、自分を憐れまない技術というものなのでしょう。

今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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