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東京アダージョ:走るエリさん

東京アダージョ:走るエリさん(ラストにBGM)

「エスカレータ、どこだっけ、そこまで送っていきますから・・・
それから、これらからも、ずっと、元気でいてね。」
エリさんが、振り返って、手を小刻みに振った。

・・・
ああ、やっぱりこれで良かったんだ。でも、きっと、これで、エリさんの幸せになるのだから・・

ただ、なんだか、むなしい気持ちだった。
・・・・・
・・・・
・・・
・・

と思ったら・・・

さっきのエレベータの方から、ハイヒールの
カーン、カーン、、
ガツン、ガツン
という、
強烈に響く音が近づいてきた。

後ろを振り返るとエリさんが、上るエレベータを逆降りして、人を押しのけて走ってきた。
そして、唖然とする自分の手を握り・・・
「また、一緒に出かけようね、ね」
「うん」
「まだ、私のこと好き、年上の人が、いいって聞いたよ、前に・・」
「うん、ええ」
「だったら、そうしようね」

その時のエリさんは、まるで、可憐な不思議な少女のようだった・・

・・・

そのエリさんとは、他学とのコンパで、エリさんが院生の時に、知り合った。
エリさんは、その時は芸術理論を専攻していた、そして、自分より5歳上だった。
その後、証券会社の研究所に勤めいていた・・それは、学生の時から、ずっとお付き合いをしていて、優柔不断な自分は、後先を考えずに、職場に電話をもらうと出かけて行った。

今、考えると、ありがたい話だった。それに、エリさんが、まさか、しそうもないことをさせてしまった。ずいぶんと、申し訳ない思いだった。
いつだったか、エリさんに、二択問題を出された事があった、『年上か、年下か、のどちらが好きか?』という問題だったけれど、それは、エリさんに回答する訳だから、当然だけど回答は、はじめから決まっている。

・・・・・・・

その当時、自分の職場の同じ部屋には、自分と同い年の、その組織のトップの秘書の女の子といつも2人だった。
同じ部屋というより、その部屋の僅かなスペースに自分を置いてもらっていると言う感じだった。
 エリさんから電話があると、その子が、いつもの気取った声で電話を取り、そして電話を変わると、受話器のすぐ横に立ち、顔が近くに来て、受話器に耳を押し当てるようにして、聞き耳を立てていた。受話器が間にあるにしても、顔が近い訳だし、変な格好だ。
からかわれているというか、いずれにしても、その暇な職場のお友だちにしてみれば、自分は気軽な話し相手だったのだろう。
ただ、自分は、仕事が来ると、とても時間的な余裕もなく、出かけなくてならなかったけれど・・いつもは、プレスリリースから、誤字脱字だらけの予定稿を何通りか・・いや、それは、校閲がかかるし、、いや、今、その話は、どうでもいい・・。
だから、いつも、エリさんから電話があると受話器を持って床にしゃがんで話した。これも変な格好だが、仕方ない。               その内、その子もしゃがんで、受話器に聞き耳を立てたり、電話中に、ぼくを笑わそうと寄り目をしたり、普段の気取り具合と落差が大きい人だった。 いずれにしても、ずいぶん昔だ、携帯がない訳だから・・・そして、ここを退出すれば携帯のない時代だから、何をしていても連絡はない訳だった。

そして、電話が終わると、
「今の電話、デートのお誘いね、どこへ行くの、今晩、明日なの?」と聞いてきた。
「もう、違うからぁ・・『食事しよう』だって、それだけ・・・聞いていたでしょうに・・」
「で、今夜、どこへ、泊まるのよ」
「だから、それだけって・・」
「どこで食事?」
「JRの入り口」
「それは待ち合わせ場所でしょ」
「うん、聞いていたんじゃん」
「言いなさいよ、水くさいわね」
「考えてないよ、あっ、デパートの食堂」
「だめだ、これじゃ、まとまるものもまとまらない」
「人のことより、自分の事、考えてたら」
「いやだっ、言ってくれるわね」
「だって、いじめるんだもん」

・・・・・・・

そのエリさんとは、休日は、いつも車で出かけた、都内や関東圏のミュージアムや、湘南海岸・・・それから、軽井沢、原美術館-ARC、賑やかし頃の清里・・
それから、横浜の元町や、東京都美術館等・・考えてみれば、当時の著名な美術展はすべてのように二人で出かけていた・・
ランダムになってしまったが、考えて見ると相当たくさん出かけている。
それは、毎週のように出かけていたからだろう。

そのエリさんのお父さんは、音楽の業界の方だった。
お姉さんも、やはり、音楽の世界の人だった。
そして、エリさんの母親は、その時には、もう亡くなっていたが、絵描きさんだった。その画の部分は、私の母と似た状況だった・・
亡くなられた時は、まだ、子供時だったそうだ。とても、可哀想だったが、とにかく愚痴を聞いた事はなかった・・

そして、私にとっては思いやる言葉を与えてくれた・・

自分は、最初の仕事を僅かな年数で辞めて、やりたいことがあり、、いや、それは、記録映画の時はスポンサーもついてくれたが、自分が原因不明の高熱を出してしまった。
そして、次のインディーズ映像を制作しようと、当時の放送用映画の16mmカメラを購入したが(普通はカメラさんごと、借りる事が常識)、何をやっても、上手くいかない時、1つ歳を重ねてしまった。         
その落ち込みの誕生日の時、「これから、次の誕生日まで、1年もあるじゃないの・・」と励ましてくれた。

そして、その借金の為、映画のカメラ一式(当時は、放送用の16mmカメラは、レンズは別で数百万はした)を処分するハメになった時には、即、「何にも言わないで、いやじゃなかったら、受け取って、お金は大事だわ」と、エリさんの預金をおろし、200万を現金で持ってきてくれた。                 
それは、どうしたって、受け取れる筈もないが・・
ただ、その時、とっさに「ねぇ、よく聞いてよ、世の中で、『人間が出来ている』って言われる人は、それだけ、失敗も多いのよ。だから、将来が楽しみだな。」と言える人なのだった。

エリさんの名言集のようだが・・・
だから、自分には、過ぎた人だと、いつも申し訳なく思っていたし、エリさんには、相応の人と、幸せになってほしいと考えるようになっていった・・

・・・・・・・

話は戻るが、
食事の後、ずいぶんと長いことお茶をした・・・少し経って、やっと、切り出した。それは、これからは、お友だちとして、お付き合いをしてもらう事だった。
 それは、エリさんは、いい人であることは確かだけれど、エリさんに、この先の自分の生き方を決めてもらうのは、ありがたいことだったが、自分には負担が大きかった。とても、大きな重しがのしかかっているようで、つらかった。ただ、そう言うのは、自分のわがままや、甘えもあるだろう。  そして、自分が、そうなるのもいけないと言うこともあった。しかし、率直な話、そんな実力が自分には、ある訳もないのだ。
そして、それは無理な事だろうし、これからのエリさんにも、負担が大きいと思うからだった。それに、一番にあるのは、まず、エリさんにもっと相応な相手がいることは間違えないだろう・・。
そこに自分が、入り込むと、エリさんの幸せのためにならないと言うこともあった。よく考えても、ほんとうは、それだけだった。

・・・

そのターミナル駅の地下街のお店で、食事の後、お茶をしながら、これからは、お友だちになる件を話し終えらた・・
「それは困る」と眉間に皺寄せて言われた。
「えっ」
「亡くなった母の絵の具が無駄になる、捨てるしかないじゃないの、それに、父には、身の回りを見てくれる女の人がいるから、心配はいらないのよ、いい、聞いているの、ねえ、聞いているの」
「うん、でも、自分じゃ、エリさんのためにならないじゃない・・・」
「何にが、どこがなのよ」
「自分は、そんな才能はないんじゃないかと・・」
「どこがよ、才能はあるし、それを、私が育てる、それがいけない、なんなの、急に?」
「いや、ないです、なんにも、ないんだもん」
「私は、まだまだ、子供も産めるのよ」
「うん、わかっている、それ、わかっていますし、ほんと、それ違うから」
「わかったわ、誰か好きな人できたのね」
「いや、そんなぁ、モテないですから」
「私は、小学生の時、神童と言われたのよ、だんだん薄くなったけど、女の勘でわかるの」
「えっ、薄くないですから、今も、濃くて、オシャレで、出来る女ですから」
「やっぱりそうなんだ、女ができたんだな」
「おともだちとして、これからも・・」
「えっ、それを言うために、、」
「だって、それが・・」
「今日は、電話が来たのが嬉しかったのに・・・」

・・・・

「エスカレータ、どこだっけ、そこまで送っていきますから」

・・・・・
・・・・
・・・
・・

それから、しばらくして、葉書が来た。
それは、都内の大学病院へ、「心を壊したので入院している」と言う内容だった。
と言っても、循環器では無いらしい・・
そこには、「生きていると息が苦しい」という文言もあったのだ。
その筆致は、やっと書いている、そんな感じだった。
あんなに強そうなできる女性がなんで・・・要因は、自分にもあるだろうと、ずっと親切にしてもらって、とても、申し訳なく感じた。      そして、すぐに駐車場に走り、車に乗り込んだ、自分の心臓の鼓動が聞こえる。
河田町にある、その病院のパーキングに停めて、病室に向かったのだけれど・・・・

その姿を真正面から見るのは、あまりに可哀想だ・・・夜になってしまった、ふと、ガラスに映る自分が見えた・・そこには、情けない自分がいた。

そして不審者と思われたのか、看護婦さんに呼び止められて、エリさんのことを、伺う事になった・・
そのセクションの婦長さんとも長いこと話して、最後には自分を大切にするように言われた。
それじゃ、エリさんの病状を思うと、あまりにつらい・・。
ただ、「そこに自分が、いない方が相手の幸せになる」
それは、その時、私的にと、言う事で、遠回し言われた、いや、医療現場でたくさんの患者さんを見てきた看護婦長さんの、落ち込んでいる私への気遣いかも知れないが・・
いずれにしても、現在の医療従事者とは違がった、そんな時代だった。

・・・

思い出してみれば、ドライブに行く時、いつもサンドイッチを作ってきてくれた・・今、思い出したけれど、
当時、高級外車だらけの自由が丘のピーコックの駐車場で、愚痴を言った時は、「この車(友人からもらったレガシー)も、外国では、外車だよ」すんなり、言いきった。冴えた名言だと思った。
エリさんが、前の大学で学部生だった頃、名刺を作って、自分を売り込むゼミの授業があったそうだ、それで、自分の名刺を作ってきくれて、そうさせられたが・・それも、はずかしくて嫌だったけれど、いつも、親身に、成功への道へ導いてくれる訳だった。
ただ、いくら、がんばってもダメな人間もいる、それが世の中の構成と言うことが、それがわからない人なんだろう。それは、エリさんが、シンクタンクをしていた頃だったからかも知れない。
この場合は? 自分は、将来、アートの世界に行くのか、それとも、このまま、勤め人で・・ほそぼそと業界のほんの片隅で行くのか・・そして、自分は、何なのか、そして、何ができるのか、若い頃は、自分でもわからないものだ。いや、今も、それは同じかも知れない。

・・・

そして、少しやることが、いちいち、あまりに変で、大げさで、そして、派手好きだったが、やっぱり、気遣いのある良い人だったんだと、今になって、つくづく思った。
エリさんは、身長が170cmはあるので、「何をやっても目立つのよ」それが困るとよく話していた・・・
他にもっと相応な相手もいただろうに、学生の頃から、ずっと知っていたので安心感もあったのかも知れない。

それから、エリさんのお父さんは、身の回りを見てくれる女の人がいるから、実家とは別に住居があると言っていた。それとは別に、エリさんは、実家に居るか、深夜にわたる仕事に、便利な都心に自分の所有のマンションに、1人で住んでいたのだった。

いつだったか、待ち合わせの場所を聞くために言われた通り、エリさんが、マンションにいないので、実家に電話をしたら、イベントらしく留守で、お父さんが電話にでられた、とても、気さくな感じの良い方だった。
そして、自分のことも、それとなく知っていたらしい。
携帯のない昭和の時代は、実に不便な訳だが、別の意味では、取りにくいコミュニケーションには、よい時代だったのかも知れない。

ただ、思い出してみれば、最初に会った時、その後、「お茶しようね」、と言われ、そこで、「卒業したら結婚しようね」、と言ってくれて、「うん、そうする」、それから付き合っていたのだ。それは、ずっと、じょうだん、ではなかった訳だ。

それから、会うことは、なかったが、ただ、自分は、そうすることが、病院のスタッフから言われた、エリさんのためになると信じていたという事もあった。

ただ、後から考えると、入院の要因を作ったのは、まずは、優柔不断な、この自分だろう・・。

・・・・・

それから、何年か経って、宮司さんが映画の脚本を書いていた都合で、自分が少ない給与なのと仕事が不規則なので、置いてもらっていた、都心の神社の奥の旧社務所で、長女になる赤ん坊をあやしながら見ていた新聞で、エリさんのお父さんの訃報を見た・・・
喪主には、お姉さんのお名前があった・・

なんだか、熱いものが込み上げてきた。

(註)お読みいただきありがとうございます。世の中のタイミングというものが、上手くいかないこともありますね、そこには、ご縁より、優柔不断の自分があるからだけなのですが・・。でも、エリさんと、もし・・・いや、考えても、申し訳ないし、もう、、仕方ないですが・・    
このノンフィクションシリーズ- 東京アダージョ:エリさんのことは、もう少し、内容が前後しますが、視点変えて・・・まだ、どこかで、続きます。

#東京アダージョ #創作大賞2022

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