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File.53 大変で、面倒で、美味しい「テノール」 渡辺大さん(テノール歌手)

オペラはさまざまな楽しみ方ができる芸術だが、その根幹は「歌う芝居」である。したがって、最も重要な要素のひとつは「オペラ歌手」の存在だ。なかでも一番の花形は輝かしい高音を持つテノール。だが、テノール歌手にはほかの歌手たちにはない苦労があるともいわれている。渡辺大さんは「真正テノール」と呼びたくなるような純粋な美声の持ち主だ。もともとは一般の大学に通うジャーナリスト志望の学生だった渡辺さんが、なぜテノール歌手になったのか、そしてテノールにはどのような大変さがあるのかを教えてくれた。
取材・文=井内美香(音楽ライター/オペラ・キュレーター)

—— 渡辺さんは一般大学を卒業し、それから音楽大学で声楽を学ばれたそうですね。いつ頃、どのような理由でオペラ歌手になろうと思ったのでしょう。
 
もとはといえば、中学校の時に私の声を気に入ってくださった音楽の先生がいらして、本格的に音楽を勉強することを勧められたのですが、当時の私にはジャーナリストになるという夢があって、音楽の道には行かず一般大学に進学したといういきさつがありました。ただ、私の父方の伯母は音楽大学を出てピアノと声楽の先生をしていたので、彼女の影響でオペラに少しずつ興味を覚えるようになってきていたのです。そして明治大学に入学してから混声合唱団に入り、それが直接のきっかけとなりました。この合唱団はイタリア・オペラを歌う伝統があり、藤原歌劇団のテノール歌手として一流の活躍をされた高田作造先生が指導に来てくださっていました。そして、先生に「君は声がいいから頑張ってやったらいけるよ」と応援していただき、自分でも「人生は一度しかないのだし、失敗したら別のことをしよう」と思って、自分の可能性を歌にかけてみようと思ったわけです。

画像2明治大学混声合唱団とソリストとして共演

—— 渡辺さんがオペラ歌手の仕事で、醍醐味や魅力を感じるのはどこですか。

まず自分と向き合うところですね。歌は生身の楽器なので風邪をひいたら歌えませんし、メンタルをやられても非常にまずいわけです。そういった求道精神というか、歌を磨くことは自分を磨くことでもある、というところが魅力です。またその結果、演奏会などの表現の場では、聴き手との一体感、空間を共有する感覚、双方向のコミュニケーションがあるところにすごく魅力を感じるんです。歌だけでなく、目線や息遣い、自分の一挙手一投足がお客さんの反応にストレートに結びつくのがスリリングですし、良いリアクションをもらった時の喜びは大きいです。オペラなどの大きな舞台でブラヴォーの掛け声をもらったときには、ああ、歌をやっていてよかった、明日からもまた頑張ろうという気になります。

—— テノールはとても魅力的な声の種類だと思うのですが、他の声に比べて高音を出さなければならない分、神経質な方が多いというのは本当ですか。
 
おっしゃる通りです。テノールが難しいのは、少し専門的な話になりますが、声が変わる音域、パッサッジョ(換声点)というものがあり、普通に声を出していくと、それより上の音に行けない箇所が出てくるのですが、そこを越えるのが非常に難しい。他の声種にもパッサッジョはあると思いますが、テノールはそこをうまく超えないと声がひっくり返ってしまう。我々の業界では「声がケロる」と言ったりします。音階でソとかラあたりまでは結構パワーで何とかなるのですが、その上の音になると馬力では無理で、テクニックが必要になってきます。それはスケートに例えますと4回転ジャンプのような緊張感なのです。
 
——それは大変ですね。有名オペラには主人公であるテノールの高音が欠かせないだけに。
 
そうなんです。野球に例えるとホームランを打つ瞬間と言ってもいいと思います。ですからテノールはいちばん美味しい声種でもあるわけです。満塁ホームランを打てる立場にある。でも逆に、観客の皆さんもそれを期待しているので、そこを失敗するとゼロとなります。人間の声はちょっとした外的要因などでも出なくなったりしますので、だからテノール歌手は神経質になるのだと思います。どんなわずかでも効果がありそうな習慣や行動を取りたいと思うのが人情というか。なんだかすごいマスクをしていたり、ネックウォーマーをしていたり、まったく喋らない人もたまにいます。お酒を飲まない方も。タバコはもちろんダメです。本番直前には「今日はちょっと調子が悪いからもうダメかもしれない」と思ってしまったり。そういう時に舞台袖に誰かがいて、バチンと背中を叩いて「大丈夫、大丈夫」とか言って持ち上げてくれるとありがたいですね。そういう意味で、性格が一番面倒くさいのはやっぱりテノールだと思います。

東京・春・音楽祭2021「にほんのうた X ~東京オペラシンガーズ
合唱で聴く美しい日本のうた」公演より。後列左が渡辺さん

——そういう大変な本番を過ごされる合間には、リラックスする日も必要だと思いますが、何か典型的な過ごし方はありますか。

コロナ前とコロナ後では、余暇の過ごし方は明らかに変わってしまいました。以前は旅行や会食、コンサートや映画鑑賞などが楽しみで、私はその他にも御朱印を集めるのが好きなので神社やお寺に行ったり、温泉に入ったりが好きでしたが、今は慎重にならざるを得ないです。感染が怖いですし、公演などでは他の方に迷惑もかけられませんので。コロナ後は家で過ごす時間が多く、料理やお酒などが好きなので、自分で料理をして妻にふるまったり、夫婦で動画配信をああでもないこうでもないと言いながら鑑賞したりというのが多いです。
 
——コロナのせいでオペラやコンサートはかなりキャンセルになりましたか。
 
中止になったり延期になったり。日程がかぶってしまい出演できなくなることが多かったです。2020年はオペラはすべて出られなくなってしまいました。するとその時に延期になった演目が2021年に移動して、時期が重なって出られなくなったりと非常に辛い思いをすることもありました。
 
——今後、チャレンジしたいと思っている役は?
 
ベルカント(19世紀前半の旋律美などで知られるイタリア・オペラ)の軽い役です。これまで色々な役を歌ってきましたが、やはりそこが落ち着くのかなと思っています。モーツァルトの《魔笛》もいいと思いますし、イタリア・オペラだとドニゼッティ《愛の妙薬》のネモリーノ役などです。ドニゼッティのオペラは高音の聴かせどころも多いので、このようなリリックなテノール役のど真ん中のところを今後はやっていきたいなと思っています。

—— これからの計画や夢などはありますか。
 
新国立劇場の中劇場では歌ったことがあるので、大劇場(オペラパレス)に立つのが目標です。それから、夢はイタリアの歌劇場でオペラを歌うことです。イタリアで歌ったことはありますが、オペラの舞台に立ったことはありませんので。そして、最近千葉県の流山市に引っ越したのですが、おおたかの森ホールという素晴らしいホールがあります。流山市は若い町で子育て世代の方も多いのですが、この地でオペラや合唱などの活動を通じて、音楽と歌の魅力を広めていくのも夢です。妻がピアニストなので二人で協力していけたら嬉しいです。

4)ピアニストの奥様と初共演時の記念写真ピアニストの奥様と

画像52022年1月にはアーリ ドラーテ歌劇団『オテロ』に出演

このインタビューは2020年10月におこなわれたが筆者の都合等で掲載が今になってしまった。渡辺さんに近況を伺ったところ、2021年からは演奏再開することができており、緊急事態宣言の時期など、一進一退はあるが、光は見えているとのこと。「音楽は歴史上いかなる時も絶えることはありませんでした。これからも希望をもって歌い演じ続けたいと思います」とのメッセージを頂戴した。今後の大活躍にエールをお送りしたい。

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渡辺 大(わたなべ・だい)
2003年東京藝術大学声楽科入学。小澤征爾音楽塾の参加を皮切りにテノール・オペラ歌手として演奏活動を開始。同大学院修士課程(オペラ)修了。佐渡裕指揮『椿姫』、『フィガロの結婚』、佐藤しのぶ主演『夕鶴』では与ひょう役等で出演。クレモナ音楽祭(伊)に出演。オペラ、古楽、バロック、宗教曲、カンツォーネ、クロスオーバーミュージック等幅広く取り扱う。日本声楽家協会教育センター講師。日本声楽アカデミー会員。2022年1月30日アーリドラーテ歌劇団『オテロ』(公演情報はこちら)、3月東京・春・音楽祭2022「にほんのうた XI~東京オペラシンガーズ」に出演予定(公演情報はこちら)。

公式サイト http://www.watanabe-dai.net/

1)渡辺大さん



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