見出し画像

YAU LETTER 《 気になる「大丸有」 》 長谷川香


YAUでは、アーカイブの一環として、さまざまなお立場の方にYAUをきっかけとした思考を寄せていただく、「YAU LETTER」プロジェクトを進めていました。YAU編集室に届けていただいたLETTERを順にご紹介します。

YAU LETTER について
書き手の方には、2022年2月から5月に開催された有楽町でのYAUプログラムをご覧/参加いただき、「都市(=東京)について」テキスト執筆をお願いしました。なお、ここで言う「都市」は有楽町に限定せず、YAUプログラムをご覧/参加する際に思いを馳せた場所でも可、としています。

気になる「大丸有」
長谷川香

「大丸有」という呼称がとても気になっている。
いつだったか、「だいまるゆう」と初めて耳にしたときは、なんとなく縁起の良さそうな名前だと思ったが、正直、何のことだか検討もつかなかった。漢字を教えてもらい、大手町・丸の内・有楽町の3つの町名の頭文字を組み合わせた言葉だという説明を聞いたあとも、すんなりと納得できず、不思議に思っていた。
というのも、大手町と丸の内、有楽町という3つの町のイメージが、自分のなかであまりにも異なっていたからだ。私は建築史・都市史研究が専門で、研究対象として皇居前広場や行幸通りを訪れることが多い。その際、仲通りや丸ビル・新丸ビルなどに足をのばし、丸の内一帯を散策するのが好きである。一方で、大手町は真面目なオフィス街、有楽町はガード下に象徴される繁華街のイメージが強く、どちらも鉄道の乗換で地下通路を利用することは多いけれど、地上に出て、用もなく町を歩く気にはならない。これはあくまでも個人的で、かなり偏った意見だと思うが、とにかく、3つの町のイメージがそれぞれ独立しているので、それらを一体として捉える「大丸有」という言葉はなかなかピンとこなかったのである。
三菱地所が中心となり、3つの町の地権者らで構成される協議会(大手町・丸の内・有楽町地区再開発計画推進協議会)が立ち上げられたのは1988年のことだという。以後、協議会と東京都、千代田区、JR東日本から構成される懇談会や、就労者や来街者も参加できるNPO法人も設置され、官民が連携しながら一帯のまちづくりが進められてきた。雑誌や論文などを見る限り、「大丸有」という呼称が一般に使われ始めたのは2000年代に入ってからのようだ。つまり、「大丸有」という新しい地区の捉え方は、地権者らの強い繋がりによって生み出され、再開発が進められるなかで、徐々に世間に広まっていったのだろう。
そのようなことを考えながら、改めて、これまでイメージが異なると思っていた3つの町を何度か歩いてみた。すると、地権者らの繋がり以外にも、「大丸有」には何か共通するものがあるような気がしてきた。それは、その場にいると感じられる「雰囲気」のようなものだ。具体的にはなんとも説明しがたいのが、有楽町を拠点とするYAU のイベントに参加するなかで、そのような「雰囲気」に触発された(のではないかと思われる)アーティストの作品に出会うことができた。
3月のYAU OPEN STUDIOで見た山本華の「Pictured Picture」という映像作品は、「何が皇居の写真を皇居にするのか」という問いについて、参加者がそれぞれ皇居周辺で撮影した風景写真を持ち寄って対話する、という企画だった。皇居について語るために、皇居そのものの写真ではなく、あえて周辺の風景写真を扱うという発想である。そもそも、皇居を撮ろうと思っても、どこからどのように撮れば良いのかよく分からない。一方で、皇居そのものは写っていなくても、その周辺の風景写真には、その気配のようなものが映り込んでいるのではないか。東京の中心にありながら基本的にアクセスすることができず、その全貌が把握できない皇居と、その周辺との関係性に焦点をあてた、非常に興味深い試みだと思う。
そして、5月のYAU TENで観たチーム・チープロによるパフォーマンス「皇居ランニングマン」は、皇居前広場で踊ることをテーマとした作品であった。さまざまな儀礼や集会などの舞台となってきた皇居前広場には、「どこか人々の行動を制限するような雰囲気」が立ち込めていて、大っぴらに踊ることは憚られる。そんな広場で「ひっそりこっそり踊る方法を探る」というのがこの作品のコンセプトだ。パフォーマーは「ランニングマン」というヒップホップのシンプルなステップを繰り返すのだが、たしかに、皇居周りでランニングする人に紛れて、ランニングにも見えるダンスのステップを踏んだら、どうなるのだろうか。警備員に注意されるのだろうか。「ランニングマン」のステップと玉砂利の音の反復のなかで、パフォーマンスの会場となったオフィスの一室に、あの広場の独特な「雰囲気」が立ち込めたように感じられた。
建築史家の藤森照信は、以前、そのような皇居前広場の「雰囲気」を、「何々をしてはいけないという打ち消しのマイナスガス」と表現した(『建築探偵の冒険 東京篇』1986)。一方、皇居とはお濠や道路を隔ている「大丸有」には、そのような人々の行動を規制する重苦しさはない。ただ、「大丸有」で働く人、観劇を楽しむ人、散策する人、繁華街で飲む人たちの視界の片隅には、常に皇居前広場やお濠、そしてその向こうに広がる鬱蒼とした緑が存在する。そうしたものが傍らにあることで、皇居そのものは明確に見えなくても、無意識に皇居の気配が感じられるのではないだろうか。皇居周りの地区のなかでも、皇居正門や大手門(江戸城時代の正門)に面し、行幸通りが貫く「大丸有」一帯は、そうした「雰囲気」が一際強く漂っているような気がしている。
ところで、私が東京で好きな場所のひとつに、皇居東御苑内に位置する江戸城天守の跡地がある。日本最大規模の天守だったといわれ、かつては江戸の町に高く聳えたが、現在は石積みの土台(天守台)が残るのみだ。その手前に広がる江戸城本丸跡の芝生広場に立つと、失われた天守に代わって、眼前には「大丸有」の高層ビルが連なっている。その数は訪れるたびに増えいき、ひとつづきの壁のようにも見えてくる。時がとまったかのようなお濠の内側の世界と、目まぐるしく変化しているお濠の外側の世界とのコントラストを強烈に感じることができる場所だと思う。
「大丸有」では、今後も大規模な再開発が行われていくようだ。3つの個性豊かな町がどのように姿を変え、そして隣りあう皇居とどのような関係性を築いていくのか、ますます気になるところである。

皇居東御苑の芝生広場から見た天守台と大丸有の高層ビル群


長谷川香
1985年東京生まれ。専門は建築史・都市史。東京大学工学部建築学科卒業、同大学院博士課程修了。博士(工学)。一級建築士。文化庁国立近現代建築資料館研究補佐員、東京理科大学理工学部建築学科助教を経て、現在、東京藝術大学美術部建築科講師。著書に『近代天皇制と東京』(東京大学出版会、2020年6月)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?