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花嫁の船出 10の途中からの加筆部分 5

【1496年9月13日】
聖母教会の北側にひときわ高くそびえる尖塔は、教会に属するものではなく、アントウェルペン市の鐘楼だった。
市長の案内で見晴台まで登ったフアナは、眼下に広がるブラバント地方の光景を眺めながら、脳裏にさまざまな思いを巡らせていた。

これから自分の第二の郷里になるはずの地。それを、母がラレードLaredoで出航前に語り聞かせてくれたアレバロ Arévaloの荒涼たる光景のイメージとオーバーラップさせてみる。むろん、互いに似ても似つかぬ土地であることはわかる。そして、そこをロバに乗り、母親から離れてゆく娘としての境遇や状況も大きく異なるが…。

「あれは最も古い鐘で、オリダOridaと呼ばれています」市長が傍らで説明する。「1316年に作られて以来、火事や嵐など緊急非常時に鳴らされてまいりましたものです」
「そうなんですね…」フアナは市長の言葉には上の空だったが、一応相槌を打つ。
「はい、そうなんです」市長は一人で張り切っている。「しかしながら、あの鐘は1459年にあちらのGabrielガブリエルにとって代わられました」

「なるほど、古くなってしまったのですな?」ルイス・オソリオが、気を利かせて代わりに相手をしてくれる。「それぞれの鐘に名前がついているのが面白いですな」
「さようで」市長は興に乗ってくる。「そちらの鐘はドラッベDrabbeといいまして、泥棒を報せる鐘でございます。1465年、まだ私が子供のころに作られたものですが、この塔に設置された時のことはよく覚えております」
「ほう、それはそれは…」オソリオ、妙な刺激をしてしまったことに気づいて苦笑する。

「鐘は、この南側の緑広場Groenplaatsで鋳造されましてね」市長は懐かし気に語る。「そこからロープで塔の上まで吊り上げるときはちょっとしたお祭り騒ぎ、大人も子供も固唾を呑んで見守ったものでした」
「ほう、それはそれは…」オソリオはなんとなく塔の下を覗いてみる。

そこには、いつもながらのアントウェルペン市民たちの日常生活が繰り広げられていた。陽気な軽口を交わしながら行きかう通行人たち。まだ夕方にもなってないというのに、大きなテーブルを囲んでビールを飲んでいる連中。小路の出入り口に立って、道行く男たちに声をかけている女…。
「ひ、姫君」オソリオは空咳をしながら呼びかける。「そろそろ下へまいりましょう。ロバの支度もできているころかと…」

「あ、そうですね」フアナは我にかえったふうで、戸惑ったような笑みを浮かべる。「では、ご案内ありがとうございました。この景色を十分堪能できましたわ」
「畏れ入ります」市長は深々と一礼して道を開けた。
一行は、塔を降りてマルクト広場を横切り、市庁舎の中庭へと移動する。
なるほど、パレードに使う乗り物の支度はすでに整っていた。

ただし、馬車の傍らにちょこなんと立っていたのは、ロバではなくラバだった。しかも、全身麗々しく飾り付けが施されているではないか。それを見たフアナは、つい噴き出してしまった。しかし、すぐに自らの不謹慎さに気づいたかのように、真面目な顔つきになって、市長を振り返った。
「私どもの国では、これをラバと呼んでいますが…?」皮肉ではなく、もしやと思って訊ねてみた。「こちらでは、これがロバなのでしょうか?」
「いやいや、これは確かにラバでございます」市長は身を縮めてそう答え、ラバに付き添っている市役所員に小声で問いただす。「ロバはいなかったのか?」

「はあ…」所員は能天気に普通の声で答える。「一頭だけいるにはいたのですが、もうよぼよぼの老い耄れで、とてもじゃないが人を乗せられるようなロバではございませんで…」
「…ということでございます、姫君」市長は言い訳がましく続ける。「なにしろ当地ではあまりロバを飼っているものがおりませんものですから…」

「そうですか…」フアナは諦め顔でうなずく。「とにかくご苦労様。このラバの名前は?」
「いえ、別に名前というほどのものは…」市役所員はきょとんとした目つきで肩をすくめる。「ただの騾馬Muildierでございます」
「そう…」フアナは苦笑しつつラバの傍らに寄って首筋を軽く撫でる。「明日はよろしくね、ラバさん」
そのさまに、一同は微笑みながら互いに視線を交わすのだった。

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。