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花嫁の船出 10の途中からの加筆部分2

馬車に乗っているのは、むろんフアナ王女である。
まだ一般市民に公表する段階ではないので、形の上ではお忍びだった。
ただし、聖母教会側ではすでに用意万端整えて、王女一行を待っていた。
フアナ王女一行が聖堂に入っていくと、ア・カペラの唄声が静かに沸き上がってくる。

Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen.
 ようこそマリア様、恵みに満みちた方、
 主はあなたとともにおられます。
 あなたは女性のなかでも祝福された方であり、
 御胎内の御子イエスも祝福されていらっしゃる。
 神の母なる聖マリアよ、
 罪深い私たちのために、
 今この時も、死を迎える時も、お祈りください。
 アーメン。
                ラテン語原詩より、拙訳
参考: https://youtu.be/mT396ljk0y0

自らも愛するこのグレゴリオ聖歌Cantus Gregorianusを耳にしたフアナは、おのずとこみあげてくる幸福の笑みを抑えきれなかった。
その見事なソロが作りなす清浄な音の空間に、まだ見ぬ夫フェリペと自分の間に生まれてくるはずの子供たちの幸せに満ちた幻影が漂っているかのようだったからだ。
さらには、司祭による祈りや福音朗読、聖体拝受Communion等の合間々々に響き渡るクワイヤquire/choirの聖歌隊による聖歌斉唱は、この世のものとも思えぬ響きで彼女を包み込み、我を忘れて聞き入らせたものだった。

ミサが終わった後、司祭はフアナと従者たちを別室に招じ入れ、数人の人物を紹介した。
「こちらは、ヤ―コブ・オブレヒトJacob Obrecht、四年前から当教会のヴィカール歌手vicar-singer(教区牧師歌手)を務めてくれている方です」
「まあ!」フアナは王女というよりは一人の乙女のように目を丸くして驚いた。「あの有名な作曲家の?」
「さよう」司祭は微笑みながらうなずく。「当代髄一のミサ曲の創り手にございます」

「お目にかかれて、まことに光栄にございます」オブレヒトは、司祭の傍らで優雅に一礼し、王女の手に儀礼接吻する。
「こちらこそ、ありがとう」フアナは無邪気に喜びをあらわにする。「お名前だけはお聞きしておりました。まさかその方の絶唱に迎えられるとは想像だにしておりませんでした。ほんとうに感動しましたわ」
「恐縮にございます」オブレヒトはまた優雅に一礼する。「お喜びいただけたこと、嬉しく存じます。ときに、姫君も歌舞の才に長けた方と伺っておりますが?」
「まあ、どなたがそのようなことを?」フアナははにかみながらも、嬉しそうだ。「才能があるかどうかは別にして、音楽や踊りはとても好きです」

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。