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花嫁の飛翔4

【1496年9月17日】
ベギンホフBegijnhof は、ひとつの集落であり街である。
中世の町々は城壁に囲われているのが常だったが、ベギンホフの場合は、広い中庭Hof を取り囲んで立つ住居や集会所などの建物そのものが外壁代わりになっていた。
そして、外部と通じる門は日中には開かれており、出入りは自由だったが、夕方になると男性は退出を促され、夜には閉じられた。

その日の昼下がり、数台の馬車の列がそのベギンホフの門近くに停まった。なかでももっとも豪華な馬車から降りてきたのは、うら若い乙女だった。身なりや身のこなしから、一目で高貴の身分とわかる、しかも息を呑むような美人だった。
彼女は、従者たちを制して、ひとりで門に近づいていった。
すると、ちょうど門から出てきた年配のベギンが、彼女を認めて丁重に挨拶した。従者たちは、二人がなにごとか言葉を交わし、連れだって中へと入ってゆくのを見送った。

礼拝堂へと案内された乙女は、祭壇で祈りを捧げたあと、聖母像の方へと歩みより、静かにその顔を見つめていた。
やがて、人が入ってくる気配と足音に気づき、彼女はおもむろに振り返る。礼拝堂の通路を歩んでくるのは、非の打ちどころのないスタイルの彼女と同年代の乙女だった。
ふたりは互いの目を見つめあったまま歩み寄り、ことばもなく抱擁しあった。まるで前世からの親しい知己同士のように…。
双方の名前の確認も、自己紹介も必要なかった。
フアナ、そして彼女の新郎の妹・マルガレーテだった。
名前については、案内してくれたあの年配のベギンが伝えてくれていたし、互いの身分や状況については、すでにこの二重婚約の特使たちによる紹介であらかた知っていた。

「もう一週間も前に、こちらにお着きになられたようですね?」マルガレーテは申し訳なさそうに言う。「お噂は耳に達していたのですが、正式な親書を受け取るまで身動きがとれなくて…。ごめんなさいね」
「はい?」フアナは目をぱちくりさせる。「親書は、やはりまだだったんですね?」
「昨日遅くに届きました」マルガレーテは苦笑する。「御一行がラレード港をご出立なさったとの親書と、当地アントウェルペンの港にお着きになったという報せと、その二通が同時に」

「まあ!」フアナは呆れ果てたという表情だ。「どうしてそんなことが? ほんとうに失礼いたしました」
「いいえ、こちらこそ。兄フェリペは折あしくリンダウLindauの方に出向いておりますゆえ、昨夜すぐに急使を派遣しましたが、貴女がお着きになっていらっしゃることを知るのは早くて明後日あたりになるでしょう」
そのとき、礼拝堂に院長が入ってきた。
「ようこそ、マルガレーテ王女様」院長はにこやかに挨拶する。「おふたりとも、もしよろしければサロンの方にどうぞ。ここよりは暖かですよ。フアナ王女様は少し風邪気味のようですのでね」
<そうなの?>
<ええ、そうなの>
二人は顔を見合わせ、くすっと笑いながらうなずきあった。

サロンというのは、礼拝堂と院長の住居との間に位置するこじんまりとした談話室だった。院長は二人を底に案内すると、気を聞かせてすぐに出て行った。風邪気味のフアナのために温めたビールを用意してくれてもいたが、フアナはアルコール類は口にしない。そこで、代わりにマルガレーテが飲んでくれた。
「これから私たち、義理の姉妹になるわけですけど…」と、フアナは照れ臭そうに言う。「こんなふうに最初から実の姉妹以上に親しみあえるなんて、とても不思議…」

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。