見出し画像

発光

平和よりも、 戦いを求める こころの動き

国家間や宗教上での戦争にかぎらず、 それは日常においても
個人が戦いの意識から、 いまをあるとき

そこで得るもの、 得られるもの 具体的には
勝利や達成感や満足や優越感や支配欲や優位性や特別意識、 だったとして
そのどれもはエゴでしかない。 エゴを満たす体感は、 持続性を持たないぶん
だからの終わらない戦いが、 また必要になる。 そうして生きる、 日々は戦場に

このいちどきりの生を このかけがえのない、 いまにしかない一瞬を
快不快からくる刹那の快楽満足を得ることに、 意識時間エネルギーを費やして
それはすぐに花火みたい消えてしまう、 瞬間の高揚を、 どれだけ胸に、 感じても

平和にとどまり、 この瞬間の、 世界の美しさから自分という存在を知ることの
よろこび、 発見に感動、 それをわかりあう豊かさを、 感じることはないままに

そうして戦いから得るものよりも、 瞬間は、 永遠性をもつ 真の充足の体感、
それを得ることの機会を失った実感は、 生のゴールを予感するとき
後悔となって、 現れる。

「後悔なく生きる。」  ”後悔” を指すところが、 ”欲望” の不満足なら
それを不満足でも生きないときに 後悔なく生きられるのではないかと思う

"欲望" それを満たすことで得られる "快楽" が ひとの生を消耗させる
そこにエネルギーをあてなければ 消耗は創造に 創造は真のよろこび、
充足へと向かい そのときにこそ、 他者に、 外に求めていた承認を
自分が自分に、 認めるとき  自分を、 この生を、 心から祝うことができる。

そのとき 戦いの意識からでなく 上でも下でも、 勝ち負けでもない
ただ目の前のそのひとを、 そのひととして、 そのひとの存在を、 祝い、 よろこび、
存在への感謝、 祝福しあえる。

それはなにも、 難しいことはないと思う でも難しいから、 修行という取り組みも、 古い時代からあるように 刹那の快楽への依存 わたしはどうしても、 夜甘いものを食べてしまうみたい、 欲望の制御、 それはチャレンジであるのだろう。

ただそれが、 "戦い" から得る、 快楽は、 他者をまきこむ
他者なくしては得ることできない快楽が 戦いで
戦いがなくならないのは それだからに思う

自分を動かすものの動機が ガチっと他者を向いていたり、 それを成すため、
そこでの結果を得るために、 他者を必要とするときは
そこに、 その胸奥に、 "興奮" がないかを見る

興奮はアドレナリン 脳内物質は、 結果を得る前 すでにその最中にも、
不安や恐れをともないながら 全身の細胞に、 快楽をもたらす。

脳に支配されない 戦いは外にはない
唯一向き合い、 対峙すべきは 自分の欲望
それを満たすことで得られる、 脳内の快楽物質


何か、 誰かと戦うよりも それよりは、 自分の菌を大事にする
腸は第二の脳
腸の健やかさは 自分のこころと連動し
欲望からでない 他者、 世界との化学反応、 発酵を
かけあわされうまれる豊かさ、 ハーモニーを、 かなであう
腸内フローラにあふれる平和は、 自分となって、 世界をつくる

平和にとどまる。

そのために、 こころを、 微細なるものに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?