当たり前の徹底を「厳しい」と感じる子へ

外から帰ったら
「ただいま」を言って、
荷物を所定の場所にしまい、手を洗う。


部屋を出る時は
開けた扉は閉める。


トイレに行ったら
扉を閉めて用を足し、
水を流して、手を洗い、
扉を閉めて戻ってくる。


遊び終わったら
使ったおもちゃは片付けて、
元あった場所にしまう。





私はこれらはすべて
当たり前」の行為だと思っている。





これら「当たり前」を
当たり前」のものとして獲得することを

自立
(=できることは自分でやる)と呼び、



その獲得した「当たり前」のなかから
その場に応じて適した「当たり前」を選択することを

自律
(=自ら考え、判断し、行動を選択する)と呼ぶと思っている。





当スクールでは、

自分の頭で考え、行動すること、
自律」を掲げているが、


自律」のためには、
それに先駆けて、「自立」が必要。


だから、私は冒頭に挙げたような
当たり前」の行為の数々を徹底している。





当たり前」を「当たり前」にするために


すでに出来ている子、
出来るようになった子は褒めるし、


まだ出来ていない子には

「荷物はしまう」
「開けたら閉める」
「使ったおもちゃは片付ける」
……

指摘するのだが、



先日、ある児童から
「先生は厳しい。」という意見を頂いた。





「厳しい」と感じるということは、

その児童は、

「荷物はしまう」
「開けたら閉める」
「使ったおもちゃは片付ける」
……

いずれか、もしくは、すべてが
まだ出来ていない。




ということは、

「荷物をしまってくれている
「開けたら閉めてくれている
「使ったおもちゃを片付けてくれている

まわりの友達、大人、親…
誰かの存在があり、


その児童にとっては、
誰かが「やってくれる」ことが「当たり前」なのだ。







音読の読み間違いなんかもそうだが、

間違い、誤り、ホントの正解…

これらは
外からまわりの誰かが

「それは違うよ」
「正解はこれだよ」

言ってあげないと
本人が自覚することは厳しい。





「荷物はしまう」
「開けたら閉める」
「使ったおもちゃは片付ける」
……

誰かが言ってあげないと、




「自分がやっていないこと、
それらは全てまわりの誰かが
知らず知らずのうちにやってくれている

その支えがあって自分は今生きている。
このままではいけない。」

と気付いてもらわないと、





誰かが「やってくれる」ことが「当たり前」の子
と、

自分が「やる」ことが「当たり前」の子
との間の

自立」の差

そして、
自律」の差は広がるばかりだと思うのだが





「荷物はしまう」
「開けたら閉める」
「使ったおもちゃは片付ける」
……

これを言う私は「厳しい」のだろうか??

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