遺所

私は、きっと、1人で死んでいくんだと思う。
森の動物がそうであるように、私もきっと、誰にも看取られず死んでいくんだと、幼い頃から思っていた。

それは、私が不登校児だったからでも、虐待サバイバーだったからでもなく、
道端に転がっている蟻の死骸を見て、4歳の頃にそう思った。

そもそも、人間は1人で生きていかなければならない。逆説的に言えば、人間は1人で死んでいかなければいけな。
呼吸をするのも、食べたものを消化するのも、誰かの手を借りてはできない。
逆に言えば、呼吸を止めることも、その生命活動を終わらせることも、他人の悪意を除けば、基本的には自分自身でしかできない。

ただ、それはあくまでも身体的な都合であって、精神的なことを除外した上での考え方である。
だからこそ、私は思うのです。
死ぬということはどういうことなのだろうと。

生きていく上でバランスを取らなければいけないそれは、人間が求められる社会で生きていく上で相当レベルの高いことであり、

ただでさえ、生命活動を維持しなければいけない内容の上でバランスを取らなければいけない、しかも時によって他者の都合に巻き込まれる。
そんな虫の悪い話があっていいのかと私はいささか疑問に思うけれども、精神面で言うと、この一喜一憂をしていては即ちそれは生きていけない。

だからこそ、いずれ死にゆく運命であると言うことを念頭に置くことで、なんとなく生きていくことのしがらみや怖さといったものから逃げてきたような気がする。

だけれども、大切なものが増えれば増えるほど、「今生きていてよかったなぁ」と思えることが積み重ねれば、積み重なるほど、目を逸していた。自分も、そうしなければいけなかった境遇に対しても、憎悪の念が積もりに積もる。

でもさ、でもね。
この世界では、1度も死について考えることがなかった/迫られることのなかった人間の方が大半で、
その乖離に傷ついているのは、紛れもなく私なのであって。

どこからどこまでが自分本位の考えで、どこからどこまでが環境由来なのかもわからない。
だけど、この生きづらい世界の中、生きづらい原因が自分なんだったら文句を言うつもりもないけど。

でも、ふと思うんだ。
人間って、それぞれの背景やそれぞれの思いがあるから、違ったものを持っていた人と反発して、
社会にはまらなければいけないと言う通念を、パズルのように、当てはめたところで齟齬が起きるのは当たり前の話で。

だからこそ、共に生きようよ、とか、誰かのために何かをしようっていうのは浅はかだと思ってて。

何かをしてあげたい、自分に何かできるんじゃないかっていうのは、もしかしたら相手の背景からすると、おせっかいかもしれなくて。
でも、そんなこと言ってたら何もできなくて。

でも言える感情は全部墓場に持っていこうと思います。
遺所くらいは自分で決めたいなと思いながら、最近は生前整理をしています。

そんなまだまだ寒い2月の初頭。
今年は年女で、2月は私の誕生日があると思うと、随分と長く生きたなぁと思い、それでもやっぱりビールはおいしいのです。

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