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心象

私は自分の撮影した写真が好きだ。

フィリピンのペンションの窓から

おごるわけでは無いけど、何回かコンクールに受賞としているし、それなりにうまい方なんだと思う。

自分が撮りたいものと、どういう風に写したいかと言う軸がしっかり決まっているからだと思う。

高校生の時に、初めてカメラを手にした時、
私は嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
もともと引っ越しをたくさんする家庭だったから、
移り変わっていく景色や、もう二度と来れないかもしれない。景色をデータに残せるということは本当に嬉しかった。

でも、今は真逆である。
美しかったその戻れない過去に向き合うことが怖い。

かつて何かに努力していた情熱。
大好きでたまらなかったペットのハムスター。
何度も死にたいと思いながら見上げた雨上がりの空。

上野公園の紅葉

その全てが美しすぎて、この世のどんな黒色より暗い人生に絶望している私にはかなりしんどかった。
世界を嫌いになりたいのに、世界は、それ自身を嫌いにさせてはくれない。

特に私の撮る写真は日常テーマにしている。
ありふれた日常、その中に映り込む光。
私が大好きなものを、私が思った感情をありのままに、残酷なまでに、私の視界と一体化したレンズはデータ化する。

戻りたい、戻れない。
嫌いになりたい、嫌いになれない。

何かひどいことをされても、
何か辛いことがあったとしても、
私は、私の写真を見ることで、やっぱり世界を捨てることも、嫌いになることもできなかった。

社会人1年目。
会社が倒産すると言うことを聞いて、もう人生に絶望したときに、私はレンズもろとも、カメラ一式を破壊した。

こんな残酷な世界、私が全部終わらせてあげようと言わんばかりに破壊した。
それでもSDカードのデータは壊せなかった。
そのデータの中に詰まっているのは、私の希望そのものだった。

ベルギーの空を渡る鳥

私が生きていたこと。
頑張ってきたこと。
今、ここにいると言うこと。

全部かけがえのない事実で、例えば今そのデータを破壊したとしても、きっと誰かが、何かが私の何かを覚えていてくれるはず。

割れたレンズの破片で、私の手が切れ、体中のあちこちが血まみれになった後、私は心が痛くて大泣きした。

ちょうど今から1年前の事だったと思う。
そして、そこから1年後。
奇しくも写真同好会的なものに参加することになった。

そういうわけで、過去の写真を見てみると、やっぱりそこには私の大好きだったものが写っていて、
忘れてしまっていたけれど、パンドラの箱が開いたように一気に蘇る、昨日の事のように覚えているその風景。

シャッターを切ったときに、私が感じていた高揚感と、どうしてその光景にシャッターを切ろうと思ったのかと言う気持ち。

泣きながら、笑いながら、もうどういう気持ちを表していいのか、わからない気持ちでデータを読み込み続けた。。


飛鳥山の桜

大好き。大好き。愛してる。
でも、やっぱ嫌い。

それでも、今、私がこの一瞬を過ぎゆく過去にシャッターを切ることが怖くても、
それでも、私は、いつかまた、必ず、芸術としての日常を、ありふれた中の芸術を切り取っていくんだと思う。

たとえ絶望映すことになっても、
過ぎ去っていった1秒前の私が、未来の私にバトンを渡すように、
それはまた反転させて、希望に変えていくんだろうと思う。

とある雪の日

積み重なっていってすぎて行った輝かしい思い出。
今、私にとってそれを見る事は、振り積もった雪を一つ一つ温めて解いていくような作業で、正直とても辛い。

願わくば、その雪解け水が流れ着いた先が桃源郷のように、花の咲き誇る場所で、
私の心にも、その種を宿しますように。

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