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ほろほろと歩いてる


関西に移住するにあたって、車は残して来た。

もうなるべくミニマムな生活としたい。

ということで、かのじょとよく歩いている。

歩き過ぎるとかえってダメージを受けるので、1時間半ほど。

それでも、疲れますが。


きっちり、この所要時間となるわけは、

駅までバスで行き、用事を済ませ、その駅から、家まで歩いて戻って来る。

なので、いつも距離が同じなのです。

駅からさらに近隣の駅まで用事に行くこともあるけど、要は帰りは駅からの徒歩に。


開花が遅れた桜は、今日はまだ満開に近い状態でした。

昨日の六甲おろしで散ったものと思っていたのですが、思わず喜んだ。

なぜ、桜はこんなに浮き浮きさせるのか毎年、不思議です。

どうしてなんだろうね?と歩きながらかのじょに聞いてみる。

どうしてなのかしら?とかのじょ。

かのじょは背が小さいけれど、わたしより強靭な脚力を持っていて疲れ知らず。

わたしは、へろへろと歩く。


並んでたわいもない話をしている内に、わたしのこころが喜んでいる。

「あなたとこうして歩くと、なんだか嬉しい」といってみる。

なにも答えず、にこにこしている。

しばらくすると、「ここに越して来る前も、歩くと嬉しいなって言っていたわ」と言う。

そうだ。最近にかぎらず、かのじょと歩くとわたしが嬉しがる。


「嬉しいんだ。

こんなことを言う人って、あまり多くは無いかもしれない。

なんでだろう?」とわたし。

恥ずかしいから、男はあまりこの手の表現はしない。

そうでもないか。


「なぜ、嬉しいんだろうか?」と歩きながら、また聞いてみる。

たいがい、かのじょは、わたしの左側を歩いている。

「そうね。たぶん、いつも二人で何かをするって無いからかしらね」。

確かにそうだ。

夫婦だからといって、趣味嗜好が近いなんて無い。

いや、生存戦略上、反対の人を選んで危機に対処するんだろう。

どちらかが苦手なことでも、もう片方が得意ってあるし。

夫婦は、I love you.というよりも、同じ運命共同体の側面が強い。


実際、わたしは、文章を書くとか、じぶんで何かを為そうとする傾向がある。

ひとりで本を読んだり音楽を聴く。

だから、かのじょと行動を供にはしない。

お互いが共同してするなんて、買い物か、こうした散歩ぐらいしかない。

かのじょは、相手にしてくれる者がいなければ、たいがいはドラマを見ている。

飽きないの?と聞くと、「わたしは受け身だから、なんでも見るわ」という。

わたしのように、すぐに断定せず、じぃーとみている。

ドラマの『カルテット』なんか、わたしは最初にもうこれはダメだと断定してみなかった。

意外と面白いのよぉと、かのじょはいう。

確かに、見ているうちに段々と面白くなる展開ってある。


「最初にすぐに判断が来るわたしのような人は、損してる」と言ってみる。

「損じゃないわ。それは判断なんだから、それで良いんじゃないかしら」。

「いや、ひょっとしたら、もすこし我慢したら、満足が得られたかもしれない。

なのに、さっさと処理して、これはダメだってすぐに捨てる。

仕事はなんでも早くこなせる方だけど、なんだか、処理ばかりして、じんせいを味わってない。

だから、わたしは、損だなぁって思うんだ。」


「そんなことないわ。

あなたはそれは見る価値が無いと思って、他のことが出来たんだから、満足なはずよ。」


「いや、損してるんだ。

もう、ぱっぱと処理するために生きているみたいな気がする。

あなたは、じゎーっと味わってから判断するから、味わうじんせいだろう。

なんでもじゎーっとしているから。

スーパーのレジ打ちには向かないけど。」


「そうね、わたしは何でもぱっぱとできないから、とても向いていないわ。

あなたは、レジでいらっとしてる。わたしなんかだと許してもらえないわ。

わたしに出来る仕事ってほんとに少ないの」


「そのかわり、あなたはじぃわ-っと味わうじんせいだ。

やっぱりわたしは、ずいぶん損してる」


「そうね、損してるわね」と一言言ってくれたなら、終わるはずの会話がこうして、延々と続く。



この街にはいっぱい桜が植えてある。

運河沿いに歩く。

潮の匂いがしてくる。

ぱっぱと処理する東の男と、なんでもトロトロしてる西の女が供に過ごすなんてない。

好みがまるで合わない。

で、毎回、「あなたとこうして歩くと、なんだか嬉しい」といってみる。

そんな話は前に聞いたとかは、言わない。

毎回、ふんふんと判断もせずに聞いている。

意見はあるんだろうけれど、それを押し付けては来ない。

「そうなのね。あなたは今そう思っているのね」という完全受容型だ。

で、それではつまらないので、いろいろ、わたしはチャレンジしてみる。

あれは、どうなんだろうか、これはどうなんだろうかと挑んでみる。

なにを挑んでも、適正な答えが返って来る。


並んで歩いていると、なんて背が小さいんだろうかと、今更ながら驚く。

桜が咲く春の陽の中で、ほろほろと歩く。

ただ歩く。

今日も歩こうというと、まずは嫌とはいわない。

歩きましょと、一緒に並んでくれる。

それにしても、歩くたびに、喜んでいるじぶん自身に毎回驚く。

何を喜んでいるのかが分からない。

わたしはこころの中で毎回おもう。

この嬉しいは、楽しいという感覚とは違うな、と。

きっと、ふたりいつまでも供に歩るけるわけではないと体が知っている。



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