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星の子が瞬く ― 自我を見つめる人のこと


前回の記事なんですが、ちょっとかのじょに驚かれたかもしれません。

すぐに怒ってばかりのわたしに、なぜ、そんなお嫁さんが来てくれたのか。

実はむかし、ツルを助けたことがあったのですほろほろ。長いです。



1.16才のこたえ


主演した映画『星の子』に関連し、“信じるとは”と聞かれた彼女はまだ高校1年生だった。


「その人のことを信じようと思いますって結構使うと思うんですけど、

それってどういう意味なんだろうって考えた時、

その人自身を信じているのではなくて、

自分が理想とするその人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなぁと感じています。

だからこそ、人は裏切られたとか期待していたのにとか言うけれど、

別にそれはその人が裏切ったとかいうわけではなくて、

その人の見えなかった部分が見えただけであって、見えなかった部分が見えたとき、

それもその人と受け止められる、揺るがない自分がいるのが信じられることかなと思います。」


「揺るがない自分の軸を持つのはすごく難しいです。

だからこそ人は『信じる』と口に出して、

不安な自分がいるからこそ、理想の人物像にすがりたいのではと思いました」。


ちょっと照れながら答えた。

かわいく、うまい人だとは思ってた。その子がさらり答えて、わたしはびっくり。

全国の16歳にこんなこと言える人って、他にいるんですかね!?

星が愛でた子だった。



2.昔、16歳だった人に確認してみた


エゴというのは、「行為している主体者」という感覚です。

少女は、エゴが脱落し、良いこと言わなくっちゃとかいう虚栄が無かった。

降りて来るままにすらすら言葉を紡ぐ人をわたしも知っていて、毎日顔を合わせている。

どう思うんだろう? かのじょに、このインタビューを見てもらった。


「ううーん。わたしも16才の頃、同じような感覚があったことを覚えてるわ。

自分がそう感じていたから、16歳でこんなふうに言う人がいるって別に驚かない。

そうね、という感じかな。

わたしは字が読めないから、彼女のような語彙では表現できなかったとは思うけど。」


別に違和感は無いし、で、何か?みたいな返事だった。

ええ”-、、わたしゃ、驚かないあなたに驚いた。


かのじょも、エゴが脱落し、この世界を意のままに操ろうとはしません。

いつも、ほろほろと周囲にどつかれてる。

誠実だ。目立とうとはせず、隅っこにいて穏やかにしてる。😊

集中するので他に気を回せない。ちぐはぐなオトボケさんではある。

じっと自他を見続け、聞かれたからするすると答える。

そういうおっとり系の人たちは、なぜこうも鋭くことの本質をえぐるんだろう?

アヒンサーという言葉が浮かんだ。



3.アヒンサーの位置


イギリスの植民地となってたインドでその独立を主導したガンディーですが、

彼はアヒンサー(非暴力)を徹底したことで知られ、武力を使わずに大英帝国を葬り去った。


で、わたし、去年の引っ越しの前後は、ヨガの聖典、『ヨーガ・スートラ』にはまってた。

ヨガは、こころを束ね統一する哲学体系で、8段階を経て究極の境地を目指す。

① ヤマ :してはいけないこと 5項目
② ニヤマ:したほうがいいこと 5項目
③ アーサナ:姿勢
④ プラーナヤーマ:呼吸法
⑤ プラティアハーラ:感覚を収めること
⑥ ダーラナ:集中
⑦ ディアーナ:瞑想
⑧ サマーディ:深い瞑想と静寂


ご覧の様にヨガは、③のポーズばかりしているわけではないのです。

ポーズの前に、①と②を納めないとならない。

①②で、今の自分の状態を「客観的に見つめ」、心を曇らせる行いを避ける。

そして、「本当の自分を受け入れるだけの知性を育む」。。


ヨガの教室に行く。

”戦士のポーズ”する。へろへろになってようやく終わる。

いやいや、そこじゃないわけです。

「本当の自分を受け入れるだけの知性」を育てないといけない。

実際、ポーズ習得より、かなり難しいです。

わたしのヨガの先生もそこの説明に苦労してた。


①のヤマ(してはいけないこと)の中で最も大切な「アヒンサー(非暴力)」は、暴力をふるわないこと。

ただ、経典の記述はそっけない。

「非暴力を確立した人がいるところでは、すべての敵意はやむ」。

すごくシンプルで議論の余地も無い。


アヒンサーは、他者に対する非暴力だけでなく、とうぜん自分自身に対しても完全にそれが安定化することを求めます。

で、少女もかのじょも、なぜかこの①を卒業していると思われる。

「本当の自分を受け入れるだけの知性」を既にゲットしているでしょう。

自然と出来ている者は、それを教える必要を感じない。

ということで、この世に①②を教えてくれる者は、レアとなる。



4.マハラジいわく


インドのニサルガダッタ・マハラジの下には世界中から教えを請いに人たちがやってきました。

きっと、「本当の自分を受け入れるだけの知性」を既に持った者は、考えてから話すというステップをとりません。

マハラジも、澱みなくいつもすらすら答えた。


「本来、アヒンサーは傷つけてはならないという意味だ。他者を喜ばせるのがアヒンサーなのではない。

善を行うということが初めに来るのではなく、傷つけるのを止め、苦しみを加えないということだ。」


自分に「苦しみを加えない」と意識して生活している人って、この世にいったい何人いるんでしょう?

かのじょは、こころ自由でありたい。だから、自他を強制しない。ほぼ、放置プレイに近いです。


ヨガの第1段階、ヤマ(してはいけないこと)ではまず、自分を統制する。

もっとも簡単な所からスタートする。

が、①の「不殺生(非暴力)・真実語・不盗・不淫・無所有」は、実はもっとも難しい。

人は「サマーディ」に憧れるけど、それ以前にここでつまずく。

ここが出来ない者に、サマーディもへったくれもないわけです。

彼女は、「無所有」以外はオールクリア。最低限のお金はたいせつよ、とはいう。

冒頭の少女は、この5つすべてを既に卒業しているかもしれない。


ふたりは、なぜか似ている。ほら、背がとっても小さい。へろへろ顔だし。いや、そこじゃない。


先の発言の前に、マハラジと質問者との間でこんなやり取りがありました。


質問者 「社会奉仕はきりのない仕事なのだとよくよく理解しました。

なぜなら、改善と堕落、進展と後退が肩を並べていくからです。

わたしにはそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかりました。

だとすれば、最後に残るのは何なのでしょうか?」


マハラジ 「何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。

状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求める限りは、新しい仕事に手をつけてはならない。

先ずあなた自身を見出しなさい。そうすれば、限りない祝福があなたに続くだろう。

利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。

もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。

なぜなら、彼はすべての葛藤を超えているからだ。」


「先ずあなた自身を見出しなさい」と言っている。

みんなは、根気よくないので、これにしくじる。



5.あなたは、辛いという


あなたも今されている仕事はきついかもしれない。

パワハラといった理不尽さ、自分の能力の向いて無さ、会社の将来の無さ・・。

もう、辞めようかな・・ でも、マハラジは言うのです。

「状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求める限りは、新しい仕事に手をつけてはならない」と。

彼は、今が「先ずあなた自身を見出」す絶好のチャンスなんだと言いたいからでしょう。


苦しみという実在はなくて、苦しいと解釈する思考がある。

同じ職場でも、同僚たちはみな、違う種類と程度の苦痛で苦しむのがその証拠です。

でも、みんなは、苦しければ、もがき脱出しようとするのが人情なんだけれど、そこだけになってしまう。

苦しいから、逃げるという式になります。

心身に危険があれば、逃げないといけない。

でも、もし、まだ余裕があるのなら、踏みとどまって確認しないといけないことがある。

職場を変えようが、夫を変えようが、給料上がろうが、病気が治ろうが「限りない祝福」は来ない。

根本的には、「苦しい」と思う「わたし」というからくりを理解しない限り、これを繰り返すでしょう。


だから、かのじょは、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、怒ることを先ず掌に載せる。

解釈無く、それを見つめます。

それを何日も、何週間も、何年も納得するまで続けている。

やがて、そこに見えて来るビューがあるわけです。

透明な見通しといったようなものが来るまで続けてる。

「わたし、考えることしかできないけど、そうして客観視を進めて行くと救われるの」。

その救われ感に確信を持った者だけが、アヒンサーを実行できるでしょう。


アヒンサーは、非暴力という単なるスローガンではないのです。

右往左往する「わたし」機構を脱ぐプロセスです。

「他者」対「自己」という構造の中で人は悩むのだけれど、先ずじぶんを知らねばならない。

ふつうなら、悔しいし、怒りが消えない。不安だし、見通しも無い。

そういう主体者感覚を横に置いておいて、掌に載せて見続けるなんて、ふつうは出来ないのです。

でも、次回、うんとあなたが苦しんだ時、「先ずあなた自身を見出しなさい」の意味が分かるかもしれない。

苦しみとは、この気づきのためにだけ存在しているかのようです。

たぶん、あなたは納得しないと思いますが。



6.ふたたびアヒンサー


すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当ですか?とマハラジは聞かれました。


「この世界的な快楽の探求の原因が何かほかにあるかね?

幸せな人が幸せを探すだろうか?

なんと人びとはせわしなく動き回っているんだろう。

彼らは苦痛の中にいるから、快楽の中に解放を探しているのだ。

彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ」。


他者を傷つけない人は自己も傷つけません。

快楽の追及も自分を追い込みます。

たとえば、狂ったようにゲームに集中しても、全クリアした後、絶望に近い虚しさが来るでしょう。

苦しい心を埋めるためにゲームに夢中になるのだけれど、快楽はいつか終わり、ふたたび苦痛が蘇る。。

かのじょは、自分に熱心に快楽を追求させません。

たまに甘いお菓子を物色して喜んでるぐらいです。


自分への非暴力って、すごく深く、多岐にわたります。

自分を「ダメなヤツだ」と思い込むことも、暴力となります。

だから、前回書いたように、劣っているわたし=ダメなわたし、では、ないと踏ん張るのです。


かのじょは、「わたしは他の人を傷つけたくないの」としか言ってくれません。

でも、自分自身も極力、傷つけないのです。

他者のためではないのです。

道徳ではなく、これは生き残るための戦略です。

ほんとの「自由」の意味をよく理解していると思います。

かのじょは、快楽を追わせず、朗らかであれることを切に願う。

だから、エゴの声をトーンダウンさせて、自他を見守る人になるわけです。

アヒンサーとは、世界を制御したいと信じる自我がそこに存在する限り、

ほんとの自分は分からないということに対する1つのチャレンジでしょう。


もっと味わってみたいな。

星の子さん、ありがとう。



P.S.


16歳の彼女です。素です。

https://www.youtube.com/watch?v=ylYPDG2NBpU

かのじょも、さらりと驚愕の叡智をのたまいます。なんの気張りも照れもなく、さらりと。

なぜ、16歳の人もかのじょもそれほど聡明なのか。

その理由を考えて行くと、「ズルイな~」とわたしは思ってしまう。


人の脳が、10本の指を持ってるとします。

10本のうちのいくつかを使って、目の前のことに対処するイメージです。

と、わたしのようなエゴまみれ、喜怒哀楽激しい人は、知能が低下してしまうのです。

例えば、インタビュー受けたわたしは、良いこと言いたいに3本、毅然としたいに1本、恥はかきたくないに3本、緊張してるに1本使うでしょう。

これで指は8本が費消されてしまう。

残ってる脳のリソース(資源)は、2本しかない。


でも、かのじょたちは、ズルイのです。

世界のセンターに自分を置きたくも無いし、目立ちたくも無い。

見栄も虚栄心も無いので、緊張してるに1本使う程度でしょう。

誠実に今言えることを言うだけにする。。

わたしは、残った2本で分析し発言しないといけない。

なのに、かのじょたちは9本まるまる充当できる。

わたしの数倍も、深く集中できる。

頭が良いというのは、それは脳のリソース論でしょう。


かのじょたちは、トロイし、へらへらとしているので、よく誤解されます。

あるいは、ああ、、頭が良いんだねで単に片付けられてしまう。

いいえ、かれらだって人間なので、そんなにスーパーではないのです。

なぜ、かのじょたちが良く考えられのか?

わたしの数倍の透明化したリソースを使って、しかもずーっと考え続け、蓄積して行く。

その戦略を小さな時から始めていたら、16歳でもそりゃもう、すんごいことになっちゃうのです。


かれらは、脱力し笑う。朗らかであること、自由であることを第1に望むでしょう。

けっして自他を傷つけず、貶めず。

エゴを着ると、息苦しいのです。圧迫感がハンパなく、単に、生理的に嫌なんです。

おそらく、ふつうの人より、自由を請い願っているでしょう。強烈に。

もし、前世というのがあるのなら、ツルの世界の高僧だったのかもしれない。

幾重にも、ずるいなぁ~って、わたしは思う。

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