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non-doingの話


ああ、、わたしは、あなたがふっと息が抜けるような話は出来ない。

こころほろほろと成れるような話も書けない。短く、お気軽な話も。

ただ、心底、こう思っていますということしか書けない。

そういう人も、いったて良いですよね?ほろほろ。



1.あなたがこころ晴れ晴れと目醒める朝


瞑想は、「何もしない」ということをします。

息を吐きながら、ひたすら、下腹に「何もしない」、「何もしない」を落として行く。

息を意識に吸いあげ、また下腹に「何もしない」、「何もしない」を落として行く。

あなたが何もしてないと思っていても、からだもこころも微小な何かをしてしまう。

何もしないなんて、ほんとに難しいです。

だから、下腹に「何もしない」をどんどん落として行く。

こんなんでいいのかな?

いや、いつのまにか、それが出来る。

念ずるということは、たいせつでしょう。


目が醒めて、こころスッキリしている朝がある。

こころが外に向かって開かれていて、じぶんでも驚く。

なんだろう?この開放感。

すぐにあなたは、「期待」が自分から落ちていることに気づきます。

あなたは、まったく何も期待していないという朝を迎えたのです。


そんなことは最近のあなたには珍しいことかもしれません。

仕事、上司や同僚、義理の母、夫、子、友だちや付き合い・・

うまくいかない、、とあなたが言う時、あなたは何かをしようとしています。

いや、積極的にあなたは、他者との好い関係を求めてる。

そこに執着する。

世界はこうあるべきだし、好いて欲しいのだし、良く思われたいし、安全でいたい。

そう思う方が当然です。自然でしょう。


でも、ずっと小さい頃までの記憶を遡れば、確かにあなたにもその朝があったのです。

ほら、「やさしさに包まれたなら」。

「小さい頃は神様がいて不思議に夢をかなえてくれた」と歌い出す、あれ。

神に期待はしませんでしたからね。

ほろほろと、神さまに委ねた。

何かをしようとか、何かに成るとか、何かを為すがありませんでした。

あなたは行為の主体者ではなかったのです。


若かった荒井由実は3枚目のシングルで、わたし気づいたのとメッセージングしてきた。

「やさしい気持ちで目覚めた朝は、大人になっても奇蹟は起こる」と。

ああ、、確かに起こるのです。

「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽のやさしさに包まれたなら、きっとすべてのことはメッセージ」だったと気づくと。

これって、奇跡じゃない?とユーミンは問うた。


「やらねばならない」とか、「失敗したくない」、「負けるもんか」があれば、優しい気持ちにはなれません。

私がなんとかしなくっちゃと意志する限り、このメッセージは聞こえないように出来ている。

意志の有無のそのベンチマーク(判定基準)が、「優しさ」だとユーミンは思ったのでしょう。

でも、優しさは意図してはできないのです。

朝、目が醒めた瞬間にすっきりすることは意図できない。

「何もしない」を「する」という瞑想の本質とよく似てるなって、わたし思う。



2.なぜ、あなたのこころが軽いの


あなたが怒っているんだったら、恨み辛みを意図しては外せない。

背後に期待や主張を抱いていれば、恐れや不安は去ってはくれない。

でも、ある朝、あなたに確かに奇跡が起こる。

目覚めたあなたは、先ず静かさに気が付く。

ざわざわと、いつも左脳が文句を言っていたのにピタリと静かにしている。

右脳はただ感じている・・。

どうしてそうなっているかに驚くでしょう。


もう、あなたは大きくなりました。

神さまは居なくなったので、自分で何とかしないといけません。

誰にも助けてもらえませんし。

すべて、自己責任なんだそうです。

やり遂げられないのは、あなたが無能でダメなやつだからだそうです。。

だから、あなたはこんなにも焦り、こんなにも他者に苛立つ。

そんな朝は来そうもない?

いいえ、それは、あなたがずいぶん考えて、怒って、悩んで追い詰められた後に起こる朝です。


もうどうしようもないと諦めたのです。

さあ、煮てくれ焼いてくれとまな板の上の魚になって目が醒めた。

ほとほと嫌気を通り越して、飽きたでしょう。

あなたは、生のバカらしさに笑ったのです。

朝、あれほど嫌いな相手にもう何にも自分が期待していないことに驚きます。

あなたはもう誰にも何も期待していない。

そうかっ、わたしはアイツにずっと期待してたんだっという気づきが来る。


自分が書きたいから書く。自由にこころ遊ばせる。

これほど、朗らかなこころってありません。

でも、これにすがろうとした瞬間に喜びは去るでしょう。

いいえ、去っても良いのです。

また、来てくれたなら。

それまでの間、ときどき「何もしない」という瞑想すればいいのです。



3.瞑想


期待することは、doingなのでみんなが出来ます。

でも、期待しないは、出来ません。

だから、non-doingをdoするしかないです。

non-doingをこころに念ずるしかない。


瞑想は、ただぼぉーっと静かにかしこまっているわけではないのです。

歩いていたって、電車に乗ってたって、話していたってできる。

本を読んでいても、食べていたってできる。

禅ボウズの専管事項なんかじゃない。

生きるわたしたちが、日常でできることがほんとの瞑想となります。


「何もしない」と下腹に落とし続けるのが瞑想でしょう。

何かをしようとする前に、まず、何もしない状態を確認しないといけない。とわたしは思います。

じぶんの現状を知りもせず、期待ばかりを自分にぶつけるって、そりゃもう断然、自己への暴力なのです。

アヒンサー(非暴力)にまっこうから反します。自分自身を守ってあげたい


目標を自己に強制しても、足元も分かっていない者にはたして歩き方さえわかりますかね?

まず、何もしない状態を確認した時、「あああ、、わたしはアイツに期待してたんだな」と痛恨に了解するのです。

足元を確認できない間は、相手の非ばかりを責め続けるのです。

ええ、この世に起こる事象の半分の責任は、あなたにある。

相手は変わらないのです。変えれるのはあなた自身しかいないのですし。


もちろん、1回、2回、10回瞑想したって、あなたはぜったいうまくはなりません。

つねにあなたの心身は何かをしようとしますから。

いや、猛烈に抵抗して来ます。

でも、あなたにも、ある朝、こころがまったく何にも執着していない、ということが起こるのです。

ああ、、わたしは今、誰にも何にも期待していないんだなっていうメッセージを受け取る。

わたしを苦しめていたのは、他者期待だったのだと腑に落ちるでしょう。

もう、他者をどう思うか、思われるのかも脱落している。

執着を手放そうなんてことさえ、どうでもよくなっている。

一切の心配や不安や不満、怒りが脱落してしまう・・・。

そういう朝を迎え、また生を始めるのです。

これって、素敵でしょ?



P.S.


雨上がりの庭でくちなしの香りの、

カーテンを開いて静かな木漏れ陽の、

優しさに包まれた時、彼女ははっと気づいたという。

やさしさに包まれたなら - 荒井由実


この瞬間に気づくたび、わたし、ゾクゾクってする。

猛烈に、でもこのうえなく静かに、わたしは驚く。

思考がいっさい落ちて、わたしのハートが広々と全開している。

これ以上のしあわせって、他にあります?

見失っていた”わたし”を取り戻すには、「何もしない」をするでしょう。

ご参考になればさいわいですほろほろ。

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