関係する?
京大の河合隼雄さんが亡くなってから、彼の言ったことをよく考えるようになりました。
もちろん、生前から有名な方でした。
たぶん、失ってからそのありがたさが沁みて来た。
河合さんの1つのメッセージは、人と人の間は参画しなければ変われないということかと思います。
1.お医者さんのこと
先日、検査入院したことを書きました。
ベンに血が混じる、大腸にポリープがあるらしいなんて先生言うんですね。
おお、、大腸がんかとこっちは怯えた。
先生は、経過観察しますか、それとも検査をしますか?と聞いて来たのです。
お医者さんなんですよね?
あるか無いかは検査をすれば一発で分かるわけです。
でも、先生はわたしに2択を差し出した。
そりゃもう、お尻からカメラを突っ込むなんてとんでも無いわけです。
だから、そんなのしたくないのです。ぜったい。
でも、経過観察を選らんでも、状況は何も変わらない。
そんなことはわたしだって、分かる!
なんで、先生は積極的に「検査しましょう!」って言ってくれないんだろうか?と思ったのです。
カメラで検査したら、ポリープがいっぱいいました。
都合、2回の検査(処置)をされた。やっぱり、あった。
先生は除去した戦利品をわたしに見せてくれました。
これを書いてる今でも、なぜ、2択を提示したのかと疑問です。
やらなければ分からない、やれば分かるのに・・。
先日、その先生の所に91歳のお義母さんを連れて行きました。
リューマチなんです。
で、詳細はいいませんけど、他の患者を待たせて30分間も先生はお義母さんに説明しました。
今のお医者さんって、患者には3分ほどしか使えないのです。
けっきょく、お薬を処方し続けるしか先生に選択肢が無い事案なんです。
でも、お義母さんは熱心に質問する、と先生も熱心に答える。時間が過ぎて行く・・。
先生の後ろにいる看護師たちもソワソワし出しました。
明らかに先生はサッサと見て判断して、じゃまた!という応答の場だったはずでした。
なぜ、2択も無いケースで、長々と先生は付き合ってくれているんだろう??
実は、今住んでいる住人の人たちに、どこの病院がいいのかと事前に確認しました。
〇〇病院の△△先生が良いという話を聞いて、わたしはその△△先生の所に行った。
若いです。まだ8年ほどの実務しかない。
断定しないんですね。さっさと判断もしない。せんせい、頼りないのです。
まあ、しいて言えば、話をよく聞いてくれているのは確かですが。
いったい、わたしたち患者は彼の何を信頼したのかな??
2.こころのこと
のぶ(次男)が小学生5年の時、いじめを受けました。
とうじ、わたしたちはどんどん甘いものを好き放題食べさせてましたから、横綱並みに太っていた。
で、からかわれ、それがだんだんエスカレートしたんでしょう。
他の父兄から、どうもいじめられてるみたいだという話が伝わってきました。
で、若かったわたしの頭に浮かんだのは、虐めてる者を特定し、逆につるし上げる。もしくは、そんな学校行かなくていいとするか、でした。
虐めている者を叱っても事態は好転しないでしょう。
わたしは、のぶに「もう学校に行かなくていい、勉強はわたしが会社から帰ったら教える」と言った。
とても辛いのなら、どうしても学校に行けないのなら、というつもりで言ったのですが、のぶはわたしの提案を拒否し、行き続けました。
で、いつの間にか、いじめ問題は去って行った。
かれとしては、親に介入して欲しくないし、未だ耐えれると思ったのでしょうか。
あるいは、人並のコースから外れて独力で勉強するなんて考えるだに恐ろしいことだったのでしょうか。
子が虐められてると知った親は2通りに分れると思います。
わたしのように、対処、対策をすぐ打つという人たち。
もうひとつは、とことん寄り添うという人たち。
後者は、たぶん、聞いてあげるしかないと思います。
そうか、辛いのか・・・辛いよね・・・・、みたいな。
後者は、当面の事態は変わらないでしょうが、でも、前者はおそらく解決にはならないのです。
わたしたちが学校で習ったものは、みな、「回答」がありました。
そして、就職して以降、対処を求め続けられました。
システム論なんかを習うと典型的なのですが、ある系(システム)にインプットされたら、しかるべきアウトプットが出て来るというモデルです。
数学の授業でも、答えが必ず1つあるというのとよく似ています。
仕事でも、お客さんがクレーム上げたら、その原因を特定し、しかるべき対処を選べばいい。
水を沸かしたかったら、火にかけて待てば沸騰する。。みたいな因果律の世界です。
原因と結果の関係ばかりを教え込まされたと思います。
ですから、わたしは、息子の虐め問題では、犯人を捜し対処するとしました。
それが困難なら、わたしが教えればいいのです。
でも、このような「じぶんを外に置いた」やり方は、実は卑怯でしょう。
じぶんで責任をとらないのです。じぶんは枠の外に居て、外からああだこうだと安全に言っているに過ぎません。
じぶん自身もそこに参画してはじめて、人間の関係というものができるでしょう。
その時、相手だけでなく、じぶん自身も影響を受ける。
相手がチェンジするかもしれないけれど、じぶん自身もチェンジしてしまうのです。
自販機の前に行って、お金を入れれば必ず、コーヒーなりコーラが出て来るという世界ではないです。
この世界の半分以上は人間関係のことで、そこは因果律に支配されていないでしょう。
子を育てる時も、同僚と仕事するときも、妻とことに当たるときも、みな”わたし”が参画してようやく、チェンジが起こりました。
外から口だしして済むなんていう因果律は、鉄を溶かすとか、自動車を運転するとかいった、モノ相手に限られました。
先生はなぜ2択をわたしに示したのか?
先生はなぜ、1択しかなくてもお義母さんに質問に付き合いつづけたのか?
きっと、人の病という問題に対処するには、医者として外からああだこうだと指示するだけでは何も変わらないという考えを持っているのでしょう。
2択を示せば、患者であるわたしが選ばねばなりません。
医者のせいにできなくなる。選んだ結果をじぶんで抱えないといけなくなります。わたしにも、医者任せにしないで参画せよと。
お義母さんの症状は変わらないと先生は分かっていたはずです。
でも、受け答えを精いっぱいすることで、お義母さんは見捨てられた感は無かったと思います。
選択肢も無い中で、添うてくれる存在がいると分かり、すこし励まされたかもしれません。
お医者さんが出来ることってほんとに少ししかないと分かっていて、それでもすこしでも楽にできたらと先生は思っているのかもしれない。
30分も他の患者を止めていたのは事実です。
どの患者にもそうしていたのなら、後ろの看護師たちも諦めていたはずで、ざわめぐなんて起こらなかったでしょう。
先生は、あきらかにお義母さんに対して参画していたでしょう。
わたし「直す人」、あなた「患者」という在り方を否定していました。
もし、じぶんが30歳代に戻って、もう一度、のぶのいじめに会ったならわたしはどうするんだろうかと思います。
仕事でキリキリした日々でしょう。
かのじょのことも、子のことも余裕を持って聞くなんてないでしょう。
わたしは、西洋科学主義の申し子となって、やっぱり外からああだこうだと指示するような気がするのです。
3.この世のこと
21世紀になれば、すこしは社会も良くなると期待していました。
でも、パンデミックは起こり、貧困はなくならず、不況とインフレは来て、戦争は続いています。
いつも、政治家も会社も、「じゃあ、こうしよう」と目先を変える。個人も目先を変えて行く。
でも、自分がその輪の中に参画しないと、「我がこと」としない限り、なにも変わりませんでした。
人間が関わることに関しては、インプット・アウトプットという因果律は成り立たないでしょう。
せめて、自分の子のこと、妻のこと、同僚のことの間に居ないとなにも紡げない。
そして、そのことを若くして既に分かっている人もいると思います。
残念ながら、男性、そして老人には口先だけの人が多いのです。
わたしも、ああすればいい、こうしなくちゃだめだと言う。
でも、相手はにんげんだもの。
関係を紡げない者の言葉は入って来ません。
”わたし”が相手との関係に入ってしまったら、相手は必ずなんらかの影響を受けます。
励まされるということが起こります。
河合さんのようなカウンセラーは治療では、この難しいことをしました。
何も言いませんが、熱心に場に参画していた。
わたしには、無理だなぁ・・・と思ってしまうのです。
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