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こころがチェンジする時のこと


20歳の失恋の時、下宿のベッドに寝ころび天井をみていました。

モンモンと辛く悲しかったです。それが何日も続いていました。

ああ”・・・辛いっ!

とその時、「悲しみに酔っていたいんだよ」という声が頭に差し挟まれた。

ええ”-っ、酔ってる?!

わたしは、びっくりした。でも、確かにその声の言う通りだった。

悲劇のヒロイン並みに酔うことが、その声ですっかり醒めました。

辛さは去らなかったけど、浸って酔うという自己憐憫がもう2度と出来なくなった。

そういうことがありました。


で、それからうん十年経って、また、差し挟まれるということが起こったのです。(もう失恋ではありません)

わたしの興味だけで書いています。

あなたには関心ないことかもしれませんが、わたしはずっとその”声”のことが気になってきたのです。



1.怒りの日

その年、わたしに2つの声が来ました。

1つ目は、わたしが会社で同僚にひどく腹を立てていたときでした。

どう考えても、アイツが悪いっ!ひどい!と怒ったわたしは席を立って歩き始めた。横浜港を見下ろすビルの14階の窓際でした。

数歩歩いた時、突然、「ほら、そうやって楽しんでいるんだよ」という声が右の上から頭に響いた。

ええ”-っ、楽しんでる?!

とんでもない!わたしは真剣に怒っていた。冗談じゃない!とわたしは思った。

と、すぐさま、じぶんが自宅にいるシーンが浮かびました。

ああ、、そこではひとり居る空間です。

誰ともコミュニケートできないその時空は恐ろしいほどに変化がないのです。

好きなことをしていてもすぐに飽きます。

わたしはひとり、ぽつんと山奥の一軒家では暮らせない。

わたしは会社という時空に行ってはじめて喜怒哀楽することができていたんだと認めました。

意外なことに、怒りは娯楽なのかもしれない・・・。

おお、、これは娯楽なのか。


わたしは仕事に行くのが大嫌いでした。

でも、山奥に孤立していることに比べたら、喜怒哀楽はなんて楽しみなんだろう!、というのです。

最初は声に反論したのですが、すぐにそれを認めたじぶん自身にもひどくびっくりしました。

わたしの”楽しむ”とは、かならずしも、楽しいことや嬉しいことに限定されていなかったのです。

ああ、、そうなんだ、、、、じぶんは嫌なことも、嬉しいことも、人が集まる所で体験したいんだ・・・。

瞬時にそう受け入れてしまったら、もう同僚への怒りも落ちました。

平らなこころになった。

席に戻り、仕事がすっすと進み始めたのでした。



2.嫌悪の日


それから数日後、もうひとつが電車の中で来ました。

わたしはバスや電車の中では周囲に注意しています。のんびり、こころ深く安らぐなんてできません。

いつも、へんなヤツはいないか、じぶんを攻撃してくるものはいないかと、たぶん、気にしています。

それは無意識に警戒しているのですが、とつぜん、わたしに「人のほんとは分からないからね」と声が来た。

うん? わからない・・・???


一見、ヤンキー風に見えてもひどく優しい人もいました。

込み合う電車内で足を前に出している人も必ずしも傲慢だとは限りませんでした。

大人しそうに見えて、ひどく荒い人もいた。

確かに人の言動ではその人を判断できないんだよなぁ・・と、電車の中でわたしはその声を受け入れた。

受け入れたとたん、わたしの周囲サーチはすとんと落ちた。

わたしはふかくこころの中に沈んで行きました。

周囲サーチが停止するだけで、こんなにも平安になるんだ・・・。驚きました。


自宅の最寄り駅に降りて、バスに乗りました。

3人のおばさんが夢中で話し込んでいた。バスの中に笑いが響く。

わたしは、周囲に無関心に行動する人が大嫌いです。

わたしはいつものようにむかっとした。

でも、「人はその外見では分からない」という声を思い出し、わたしの嫌悪がスルスルとしぼみました。

そうだよな、楽しそうに騒いでいるように見えるけど、おばさんたちは夫々に苦痛や孤独を抱えているんだろうなぁ・・。だから、あんなにはしゃいでいるんだ。

わたしは嫌悪したのでした。

でも、嫌悪さえ、暇よりはましだと”楽しんでいた”のです。

おばさんたちの声は、行き交う車の音と同じ程度になり、もうわたしのこころを騒がせはしなかった。

わたしのこころが静かなしずかな平穏に移行しました。



3.surrenderは意図しても出来ない


surrenderは、明け渡す、降伏するという意味です。

諦める、手放すという意味もある。

スピ系の人たちはよくこのsurrenderを言いますが、意図しても無駄でしょう。

よし!手放すぞと意図しても、わたしにチェンジは起こらなかったからです。


わたしのように怒りや嫌悪にまみれていても、無理やり”声”に連れ去られる時がある。

じぶんが卑しかろうがセコかろうが、時が満ちたら行ってしまう。

じぶんの声に見栄を張ったり競ったりしてもしかたないですから、声にsurrenderしてしまう。

それは瞬時の直感的な反応でした。

実は、じぶんのじんせいは折々にそんなチェンジを無意識に経て来たのかもしれません。


わたしには努力しても無駄なことというのがあって、時が満ちるまで待つしかなかったです。

チェンジなんて簡単には起こらないから、それまではお任せするしかないでしょう。

しかし、それは時間がかかるということではありません。若くても瞬時に来るでしょう。

だから、自分が良しとすることをどんどんやればいいのです。

なんでもやってみればいいのです。

怒り悲しめばいい。悔やめばいい。

ありのままに生きるって言う必要も無いことでしょう。来る時は来るのですから。

ふたたび、声がする季節が来てくれたことをわたしは嬉しく思ったのです。



P.S.


自分のこころ(思考や感情)を観察することは誰でも出来ます。

でも、自分のこころを観察していても、変化は起こりません。

視線の先を、自分のこころではなく、こころを観察している者という空間に向ける必要がありました。

もちろん、その観察している者を観察するということに、みんなはあまり経験が無いと思います。


失恋に酔い、同僚に怒っていた”わたし”。

もちろん、”わたし”はその感情に気づい(観察し)ていました。

”声が差し挟まれた”と言いましたが、正確に言うと、その”わたし”をもう1つの声が見ていたのです。

つまり、観察者を観察していたのが”声”でした。

だから、ガラリとわたしにチェンジが来たのでしょう。

普段はそんな声なり視座に気が付きませんから、「わたし=わたしと思っている者」で済ませていますが、どっこいそうじゃないんだと言いのです。

もう1つの視座に立つとき、わたしはすとんと静かになり、そして平和が包みます。

”わたし”が居ない場となる。

わたしの普段はその根っこから離れてしまっているから、わたしにいつも緊張が続くのでしょう。

でも、わたしが根っこに触れる時、わたしの心身というより、より深い層が安堵するように感じます。

リラックスするとは、こころや体を緩めることではなく、根っこにつながるということでしょう。

そうでなければ究極の緊張はとれないと思います。

もちろん、それは大騒ぎすることでも無く、当たり前のことでしょう。

でも、とても不思議な経験でもあります。

怪しいですかね?

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