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虚しさを裏返して見えて来るもの


虚しさや徒労感に襲われるんだ、という。

虚しさを裏返したら何がでてくるの?と聞かれた。

おぉ、、その返事は長くなるのですほろほろ。

怒らないで読んでね。



1.折れる時


あなたがくらったのは、こんなことか。


・頑張って来たのに、もうやる気が起きない。心が折れた。

・バリバリやってきたのにふと醒め、何をしたいかわからなくなった

・必死で自分に鞭打ってきたけど、目標を達成した途端空しい

・やりがいを失った。エネルギー切れを起こしてる

・信じて来たハシゴが外され、もう価値を見いだせない


集中して来たでしょう。

きっとがんばった。

その一途さが突然終わりを告げ、灰色が目を覆う。

手に握ってたはずの熱意も消え、無力感、報われ無さが広がるの?


心身は「もう疲れた」といっている。

42.195km全力走れば、やっぱり誰だって疲れる。

そういう時なのかもしれない。

報われ無さにブレーカーが飛んだのかもしれないし、

もともと無理してたのでブレーカーが飛んだのかもしれない。

どんな様子なの?

あなたは何かに期待していたのかもしれません。

「燃えること」、「夢中になること」、「遣り甲斐」といったこと?

この灰色景色からの回復は、なぜあなたが期待したのかにあると思う。



2.無力感、報われ無さが無いひと


まさにうってつけの方が毎日そばにいたことを思い出し聞いてみた。


わたし 「徒労感という虚しさが襲って来るんだと言われたら、どう思う?

強い期待があったのかな?無理してる?」

かのじょ 「そうね・・。無理強いして来たのかもしれないわね。

わたしはほとんどそういう想いをしたことがないけど。」


わたし 「わたしやお義母さんはがんばり屋だけど、あなたはがんばるってないよね。」

かのじょ 「そうね。できる精いっぱいはするけど、それ以上は求めないし、しないわ。

求められても出来ないから。」


かのじょ 「母は、現実主義者で、なんとかより良くしようとするわ。

こう在りたいって強く思うから、すこしでも近づく努力を小まめにするの。

自分で出来なかったら、出来る人見つけて来てお願いするわ。

あなたは、理想主義者で、こう在りたいって強く言う。

自分の身の丈で出来ることでも、出来ないことでも自分にも周囲にも強いるわね。

ガリガリやるわ。できなかったら、ブウブウ怒ってるし。

わたしは、自分が出来ること以上を自分には期待しないの。期待ということが薄いの。

身の丈以上に成りたいとか、やり遂げたいって無いから。

徒労感という虚しさが来たことはないの。

なぜって、わたしには小さい時から、出来ないことが人以上に多かったから。」


徒労感という虚しさにたぶん、襲われない人なんてこの世にいない。

みんな同じ根っこをもっているでしょう。

でも、この人には、その根っこがないのです。



3.期待できなかった生


大昔。かのじょにも娘時代があった。

母が駅前食堂を営んでいたので、ときどき娘さんは母に配達を頼まれた。

で、娘さんは、注文された料理をお客さん先まで持って行った。

お客さんが、2000円の代金に対して1万円札をはいと出した。

かのじょは、お釣り8000円を相手に渡し、1万円はそこに置いたまま帰って来た。

うっかり屋のかのじょは、料理だけでなく8000円まで渡したことになる。


黙ってたお客さんにも腹が立つけど、自分の間抜けさにも腹が立つ。

店に帰って気が付いたのだけれど、今更、渡した渡してないと揉めたくも無い。

聞いた母は「あんたは、とろかけんね」と笑っただけだった。(トロイねって)


ADHD気質満載のかのじょは、整理整頓も苦手だし、始終どこかに忘れ物をしてきた。

玄関で教室に忘れ物したのを思い出し、取りに行く。

見つけてああ、良かったって思っても、安心したのか今度は持ってたカバンをそこに置き忘れてしまう。

玄関と教室を何度も往復する・・。

待たされてた友達は、怒って先に帰っちゃう。

もうほんとに情けなくなるという。


整理整頓や工程を組むといったような、注意の配分がへんてこ。

で、普通の人が当たり前に出来ることがかのじょにはうまく出来ません。

また、目が自動に動いてしまうので本の文字がなかなか追えない。学習障害もある。

で、かのじょは、自分には出来ないことがたくさんあるというリアリティの世界で生きて来た。

出来る範囲なら頑張るのですが、無理やり自分に高い期待をかけれないわけです。


「あるがままの私」と「あるべき私」との関係は、人によって異なります。

かのじょは、ヘナチョコなんですが、誰も傷つけない。自分自身さえも。

誰とも競わない。いいえ、競えない。

「あるがままの私」ということに対する絶大な信頼を置いているとも言える。

出来ないこといっぱいに囲まれて、かのじょは「あるべき私」という贅沢をピタリ追及しない。

そして、「あるがままの私」は誰にも壊させない。

たとえ、自分でも、いわんや夫ごときにも。


かのじょを紹介したのは、かのじょには「虚しさ」や「徒労感」がほとんど無いのです。

他者に期待することも自分に強いることもほとんど無いからだと思う。

こうするべきだ、こう成りたいという「期待」をかのじょから一度も聞いたことがありません。

わたしは、かのじょに何かをお願いされたこともほとんどない。

虚しさを裏返したら、かのじょのようなひとが出てくる。



4.とても大切な”虚しさ”の扱い


たとえば、寂しさを感じたくないから、あるいは社会に役割の無い不安から逃れようと、結婚する人がいます。

退屈を見ないで過ごすために趣味や娯楽に没頭する人もいる。

内にある欠落感、不安、恐れ、孤独を無くすというより、それを見たくないために代替物に向かうのです。

お酒も、読書、ゲームも競馬もパチンコも逃避先として公認されています。

クルシュナムルティに言わせると、こうなります。


「そのとき生の全体は、果てしのない気晴らしの連続に他ならないでしょう。

ほとんどの人は、虚しさの、このとてつもない恐怖を乗り越えないのです。

しかし、それは乗り越えられなくてはなりません。

それを乗り越えたところに本当の宝があるからです。」


「あなたがその虚しさのうずきを決して理解しないのは、

あらゆる形の気晴らしと満足とによって、いつもそこから走り去ってしまうからです。

虚しさのうずきがのしかかってくるときには、逃げ去るという考えなどなしに、それに直面し、見つめなさい。

走り去ってしまうなら、それはいつでも次の角であなたを待っていることでしょう。」


厳しいこと言いました。

つまり、実は、わたしたちのこころの底には常に「虚しさ」が流れていたのだ、と言っています。

その辛さを回避したくて、あなたは何かにとりかかるのだけれど、

酒でも異性でも趣味でも仕事でも、夢中はいつか去るのです。

そういった気晴らしや誤魔化しの一過性の満たされは、永続しないから、

わたしたちは始終、期待しては空しくなるを繰り返すと。


虚しさをじっと直視しなさいと、掌に載せろと彼は言いました。

そうしない限り、あなたのこころが静まり、喜びで満ちることはついぞ無いわけです。

期待する、夢中に成るとは、代替物への逃避ケースが大半でしょう。

良い悪いというよりも、多くのわたしたちは逃避しちゃうのです。

常に満たされたいと思ってしまうのは、手元の苦痛がリアルにそこにあるから。

でも、それを自分自身が認知しない限り、虚しさ問題を作り続けます。

もちろん、逃避の覚悟があったのなら、問題は生成されません。

一息つこうとか、気晴らしだよねと分かってする分には構わない。

でも、そんな人は稀でしょう。

一様にみんなは、夢中になれること、有意義なこと、面白いことを探します。



5.様々な動機


パワハラしたり、薬物中毒、性中毒、酒中毒、パチンコ中毒になるのは、すべて「今」からの逃避でしょう。

惨めさから、人は偉く成ろう、金持ちに成ろうとするかもしれない。

一見もっともらしい信心でさえ、逃避かもしれません。

宗教や教義に何らかの安全、頼れるべきものを見出すので執着する。

不確かで、怖れており、不安定なので、心は組織や教義に執着し依存するでしょう。

あるいは、有名人や政治家や偉い学者になろうとする。

一介の人間という屈辱に耐えれない渇きを、そうして満たそうとするのです。

ささやかな存在では誰にも認めてもらえないのです。

際立つことにより、惨めさと孤独から逃げようとします。

自分の内面の貧しさ、不全感からの逃避として。


あなたはきっと一生懸命、頑張ったでしょう。

自他の期待に応えようとした。

それが逃避だと言われたら、怒るでしょう。

でも、頑張ったのは、何かの望みを託していたからです。

期待するということは、依存するということです。

収入といった将来に対する不安が起点だったかもしれません。

なにか輝く人で無いと、自分が無価値だと思い込んだのかもしれない。


彼は、こう言いました。

「でも、なにかの信念、知識にあなたを強いて執着させる内面の問題を理解するときにのみ、それは意味を持つでしょう。

自己を知ること― ひとはなぜ、信じ、拒絶し、捨てるのか。

心の構造全体を理解していくこと。

そのことによってのみ英知は生じるのです。」


「私たちが自分自身でそのことを見出すまで、生は非常に浅薄なものに過ぎないでしょう。

私たちは、巨大な富、巨大な勢力を持ち、世界中を旅してまわるかもしれません。

莫大な知識を持ち、上手に講話をするかもしれません。

しかし、その直接の経験がないなら、生は常に空虚なものに過ぎないでしょう。

底の方には常に、悲しみ、苦闘、不満が渦巻いていることでしょう。

精神は、常に自分をあれこれのものでいっぱいにしておくことによって空虚さに直面することを避けるのです。」


「その直接の経験」とは、いっさいの判断や批判なしに、内にある苦しみを掌に載せてただ見つめる、ということです。

わたしたちが求めているのは、究極、穏やかに満たされている感覚でしょう。

自身のなかの内面的な貧しさ、不満足さ、空虚さを理解せずに、ただ逃れようとしてもこころの平安は来ません。

人には様々な動機があるでしょうが、みな、同じように自分の外に代替物を得ようとするのです。



6.あなたがやらねばならぬこと


自分を理解し受け入れるまで、わたしたちは外の代用物で不安や恐怖を埋め続けます。

いつも、あなたのこころはせわしなく、慌ただしいままとなる。

虚しさが襲ってくるのはむしろ当然であり、警告音が鳴るのは健全なのです。

虚しさと徒労感が来た、その源泉は何かとようやく問える時が来ているということです。


人は、現状の何らかの苦痛から逃れようとして、何かに期待する。

しかも、大半の人間がそれをやってしまうので、わたしたちの異常さに誰も気が付かない。

趣味や娯楽、嗜好品、読書はむしろ推奨されている。

問題は、そのような補填活動に依存しているという事実を無視することにあります。

いいのです、分かっていれば期待でも依存でも。構いません。

みたらし団子もマロンケーキも、いけないと分かっていてわたし、たまに食べますから。


かのじょに、このクルシュナムルティの言葉を話しても、つまらなそうにします。

当たり前すぎるのです。「分かってるわ。それはそうね」で終わってきた。

かのじょは、自身と何度も対話して来たのです。

何度も何度も、「解釈無しに見つめ」て来た。

それをすると、起こっている事実は変わらなくても、とても救われると言うのです。

あなたも試してみる価値はあるかもしれません。


この虚しさを介して自分を見つめ、事実を受け入れないとならないでしょう。

受け入れたら、出来ること、すべきこと、していいことが初めて明らかになるのです。

虚しさを裏返したら、何がでてくるのか。

徒労感をじっと見つめるという、おそらく人生初となる体験を通して、人はようやく自分との対話が開けます。


わたしたちは、身近な一番大切な自分という人と会話をしては来なかったのです。

解釈ばかりの、損得ばかりの会話は、対話ではないでしょう。

あなたが、自分の子どもと会話する場面を想像すると分かるかと思います。

子の想いも聞かず、あなたが一方的に解釈ばかり言っていた場面を。

もちろん、じっとただ見つめるということは、禅ボウズにさえ難しいのです。

いや、そんなことをサラリする人がそばに居るって、

なん十年経ってもわたしには信じられないのですほろほろ。



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