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「カブトムシと高嶺の花」愛車遍歴(四輪編)その4

初代ゴルフで負った心の痛手は同じワーゲンの車で癒すしかない。そう思っていたかどうかははっきりと記憶にないけれど、フローリアンに満足できず次の車を探していた僕はフォルクスワーゲンタイプ1、通称ビートルに注目していた。

二十歳を過ぎた大人になっても、子供の頃に見たスーパーカー辞典に載っていた車というのは、自分の中でのひとつの基準になっていたようだ。相変わらずマイベストカーの上位はゴルフ、ビートル、BMW、フィアット、シトロエン、プジョー、ルノー、MINIとヨーロッパの小型車や中型車が大半をしめたていた。しかし、もう一度ゴルフを選ぶかと言われれば、首を縦に振るわけにはいかない。やはりどうしてもトラブルが心配だ。もう二度と同じような思いはしたくない。イタリア車も壊れるのが当たり前だと聞くし、フランス車はまだあまり世間的に浸透していないからか中古車自体が少ない。スーパーカー辞典の一番最後のページに載っていたMINIは当時から人気の車種で中古でも予算オーバー、高嶺の花だ。その点ビートルは70年代に流行ったおかげか中古車の台数が多く価格もこなれていて薄給の若造でも比較的手を出しやすい。そのような理由で次に乗る車はビートルかなと思っていた。

車種がかぶるのはタブー。それは地方都市で暮らす僕たち仲間の間での暗黙の了解だった。仲の良い友達はホンダシビックやプレリュード、トヨタMR-2やセリカXXに乗っていて国産車の方が人気が高い。つまり僕の好みとはかぶらないから安心だ。稀にポルシェ911やフォルクスワーゲンバリアントに乗ってる奴もいたが、走っているところをほとんど見たことがない。なぜなら常に故障していたからだ。輸入車好きはみんな一様に高い金を工面して古い車を買ってはみるものの、我々の手が届く価格帯のものはどこかに不具合を持つ車体が多く、購入後のメンテナンス代にまで資金が回らないというジレンマに陥っていたのである。

そんなある日、いつものように仲間たちとたむろしている最中、話の流れで車の話題となった。好きな車や嫌いな車の話をしていく中で、後輩の一人が「オレ免許を取ったらミニクーパーに乗りたいな。」と言い出した。"その瞬間、自分の中で何かが変化するのを感じた!"「MINIはオレが乗ろうと思ってるから。お前にはまだ早いんじゃないかな。」と、とっさに口をついて出た言葉がこれだ。後輩の一言でそれまでどうせ高嶺の花だからと、気のないふりをしていたMINIに対する思いが一気に燃え上がったのである。この日からMINIを手に入れるためのローンの頭金を工面する日々がスタートした。

そしてついに手に入れたMINIは黒ボディの30th。MINI発売30周年を記念したモデルだった。レザーとファブリックのコンビのシートは赤いパイピングが施される豪華さだ。もちろんシミなどひとつもない。塗装だって元から真っ黒だ。頭金をいくら用意したかは記憶にないけれど、車両価格が128万円だったのは、はっきりと憶えている。だって高かったから。長期のローンを組んだのは言うまでもない。

MINI30thとの生活は夢のようだった。幸いこれといったトラブルもない。本当に乗りたい車に乗れるというのは幸せなことだ。現代の若者たちは自分の車を欲しがらないというけれど、こういった充実感、達成感を味わないで暮らす生活は張り合いのないものではなかろうか。少し可哀想にも思えてくるが、あるいはそれも年長者の戯言なのかもしれない。

さて、MINIはカスタムパーツが豊富に揃っていることでも有名だ。少ない給料から家賃や生活費、バンドにかかる経費と車のローンを差し引いて残った小遣いをMINIにつぎ込むのは楽しかった。ハンドルをモトリタのウッドステアリングに変えたり、ノーマルフェンダーを銀色のモール付きのものに変えたりしたが、まだまだ手を加えたい箇所がたくさんあった。バンドでデビューすることになり、生活の場所を東京に移すことにならなければ、きっと長いこと乗っていたに違いない。念願かなって手に入れた愛車を手放すのは惜しかったけれど、東京での生活に車を持っていくのはどう考えてもリスクが高い。結局このMINIは浜松の友達に受け継いでもらうことになる。知らない誰かの元にいってしまうよりは百倍ありがたかった。その後も友人はこのMINIを大切に扱ってくれたようで、数年経って手放す時も直接僕に連絡をくれ、ことわりを入れてくれた。

1994年暮れ、僕は故郷の街に別れを告げて上京した。それからしばらくの間は愛車を持たない生活を送ることになる。それは寂しい日々だった。

つづく...

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