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深夜のゴミ出しとナウシカ

文:竹中杏菜

使い古された定型文を持ち出す。

世の中の人間は二種類に分けられる。季節の節目に敏感な体質を持つ者と、鈍感な者。

わたしはあろうことか後者である。鈍感というか愚鈍である。春の匂いだ秋の匂いだと、まるで巨大甲虫を森へ帰すナウシカばりのヒロイン性を持って呟く女の子の横顔を、羨ましく思ったり思わなかったりした。

例によって今年の冬も気が付けば到来しており、季節を嗅ぎ分ける鼻もなければ体温調節を上手くやる頭もないので、この時期になってやっと衣替えをしている。
そして毎度気がつくのは、自身が必要以上に物を持っているということ。そうして、真夜中の大掃除大会が開催される。

ここ数年の間で気づいたことだが、掃除をする際に重要なのは「不必要」を定義付けるより「必要」を定義づけるということだ。
モノを捨てるという作業なら、要らないものは何かを探したほうがいいのではと思っていたが、簡単に要らないと思えるものは案外少なく、一向にモノが減らない、片付かない。

一方で「必要」が何かきっちり理解していれば、それ以外は捨てる、売るなどしていとも簡単にお部屋がから箱になる。わたしはから箱が結構好きだった。

ちなみにわたしの「必要」の定義は普段からよく使うものに限り、それ以外のモノは例外を除いてほぼ追い出した。
思い入れがあったバッグや初めて貰ったそろばんのトロフィーも捨てた。そんな時にはたと我に返る。気付いてしまった。
必要≠大事という等式が成り立ってしまうことに。

大事なものは必ずしも必要なものではないのか?

必要なものは大事なものでないのか?

なんだかどちらも思い当たる節があり、部屋でひとり変な顔で仁王立ちする。

所謂、「頭ではわかってるけど心が云々」みたいなことだろう。正しいと優しいは違う。人間に感情を持たせた神様は優しくて意地悪だ。ただわたしたちは、二律背反に美学があることを知っている。

一番大切にすべきは、言わずもがな「必要かつ大事なもの」だ。

わたしが大切にしようとしてきたものは、大切にされてきたんだろうか。
手からこぼれてはいないだろうか。わたしは本当に、大切にできていたんだろうか。

たぶん、おそらく、いや間違いなく、きっとできていなかったなと思う。
大事なものを間違えていたわけでも、必要ではないと思っていたわけでもないのに。

街中を抜けて海に出た時、目が暗闇に慣れないと星空は見えない。本当に大切なものは目に見えない。サンテグジュペリはどうやって気付いたんだろう。

人生に終わりがあってよかったと思う。もし終わりがなかったら、誰かを大切に思うこともなかっただろうな。もっとも、いつかその終わりを憎く思うことになるだろうけど。

一番大切にしなければいけないものの「大切に仕方」が一番難しい。だから一生をかけて大切にしがいがある。そう思うことにしよう。

ガタガタの着地点で帰結した。ナウシカへの憧れから少女性溢れる感じになってしまった。
そして気が付いたらストーブの前で一時間経っていて、耳には忘れらんねえよの「犬にしてくれ」が流れており、これじゃない感と共に現実は上手くいかないなあなどとこうべを垂れ、小一時間のタイムロスを取り返すべく再び大掃除大会へと出征していくのであった。

ちゃんちゃん。

#真夜中 #日記
#デビュー戦 #長くなっちゃった

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