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偏愛・FMW【エンタメプロレス期】1998年

FMWサンプリングコラムといったところでしょうか。この時期はあんまりキチッとWeb上でアーカイブされていないので、まとめるっつー意味でもちょっとやってみます。時系列色強めです。

シュワちゃん覚えてますかシュワちゃん。アーノルド・シュワルツェネッガー。若い世代には馴染みが薄いかも知れませんが、スタローンと同じく肉体派の俳優として知られ、なんつっても映画ターミネーター・シリーズの大ヒットで国民的知名度を得ています。名前が長くて日本人には覚えづらいからか、淀川長治さんが「シュワちゃん」と呼んで定着したとかなんとか。名前長いけど「シュワルツェネッガー」とか「ツェネッガー」ってなんでか言いたくなりますよね。だからか知りませんが、結局は愛称も本名もみんな覚えている気がします。
度々来日して日本のテレビに出まくってましたし、我々プロレスファン(蔑称:プヲタ/ヨカタ)からしてもブルーノ・サンマルチノと仲良かったりして親近感を抱きやすい、日米をつなぐアイコン的存在です。

ディレクTV、日本上陸

そんな日米の架け橋であるシュワちゃんがCMキャラクターを務めた衛星放送サービス・ディレクTV。
90年代中盤~後半は徐々にインターネットが根付き始めたぐらいで、現在のような高速回線ではないので動画配信なんて、技術的には可能であれど現実味は全くなかった。自分で好きな映像を選択して購入するスベはBSかVHS、DVDぐらい。BS(Broadcasting Satellite)は放送衛星で、なんだかよくわからないけど有料のNHKとWOWOWが見れるんだろぐらいの理解っぷりでいた我々は、更にCS(communications satellite)という通信衛星を知らされることになる。アルファベットにしても日本語にしても違いがよくわからない。いまだによくわかってないし、理解する前にネットが発達しまくってオンデマンド化してしまった。だからもうこの先もよくわからないままだろう。これが90年代中盤の話。
CCC、松下電器産業、大日本印刷、三菱電機、三菱商事、徳間書店など大手がズラリと並んで出資され、ディレクTVジャパン社が設立されました(設立は95年)。CMではシュワちゃんが「日本へアメリカのエンターテイメントを輸出する!」と抽象的ながら大々的に日本進出を煽っています。「ディレクTV CM」とかでググればCMが見れるかと思います。腰パンが流行っていて、長野オリンピックの開幕を控えている頃、1997年12月1日に日本での本放送が開始されました。

ややこしいので改行して押さえておきますが、スカパー!って最初からスカパー!じゃなくて、まず96年に放送開始したパーフェクTV!と、同年に設立されたJスカイBの二つがくっついてできたものです。「スカイパーフェクTV!」が誕生したのは98年です。
もちろんディレクTVの競合他社になります。番組数やインフラ面でディレクTVは大いに劣り、加入者数が伸び悩む一方でスカイパーフェクTV!はあっという間、同年の98年に100万世帯の契約を勝ち取っています。スカイパーフェクTV!はスカパー!と名を縮めてその後も業績を伸ばし、今やほぼ全てのテレビにチューナーが入っているほど日本に定着したのはご存知の通り、完全なる強者です。かつ勝者です。
勝者がいれば敗者が存在する。愛すべき劣勢・逆風の放送局、それがディレクTVです。でも開局当時はそんなことつゆ知らずですよ。我々消費者も多チャンネル時代に巻き込まれ、選択を迫られたわけです。VHSに続きDVDもセル・レンタルともに数多くリリースされ、積極(専念)視聴者多数の現代につながるわけですね。ちなみに松本人志の「HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」は98年から発売がスタートされ、周知のメガヒット。2016年の「HITOSHI MATSUMOTO Presents ドキュメンタル」も話題騒然、松ちゃんがいかに世代を超えた積極視聴の王者なのか垣間見えます。

FMW、特に俗に言われるエンタメ期の話をする際には、チョロっとでもいいからディレクTVから見るCSの歴史に触れておく必要があるんです。
第54回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を獲得した北野武監督作品の映画「HANA-BI 」の栄誉とヒットに揺れていた98年3月、翌月(4.4ドーム)にはアントニオ猪木の引退試合が控えていた激動のプロレス界に明るいニュースが発表されました。

FMWとディレクTV

FMWがディレクTVと契約――。3年3億ともいわれる巨額の契約料が発表されました。
FMWの詳細な説明は省きますが、大仁田厚が創設し、大仁田引退後もハヤブサをエースに有力なインディー団体として全国を巡業していたプロレス団体でございます。
シュワちゃんがバンバンCMをやっていて、大企業がこぞって出資する新たな放送局のキラーコンテンツとしてFMWに白羽の矢が立ったわけです。ちょっと違うけど今でいう、アベマを有するサイバーエージェントがDDTを傘下にして、コンテンツの一つになった的な感じでしょうか。
ディレクTV側からしてもスカパー!に比べて番組数が少ないから、オリジナルの番組を制作して話題を呼び、継続させなければならなかった。
この契約発表により、加入者数がいかほど伸びたのか。それはわかりませんが、高校生時分だった私は少なからずそのうちの一人でした。ここから税金のようにペイテレビ→サブスクコンテンツに金を払い続けるのです。バイトしたり麻雀でイカサマして稼いだり、競馬で稼ごうとして立川のWINSで予想屋のオッサンに騙されて所持金ゼロになって支払いに困窮したり思い出は色とりどり。
記憶がか細いですが、確か契約するとチューナーがタダで付いてきてアンテナも設置してくれるよ的な電気屋のチラシを見てアレコレ聞いて我が家に導入したんだと思います。工事の人とアンテナの角度に苦戦した記憶があります。チューナーがタダっていう響きが甘美だったんですよね。今じゃタダなんて当たり前なんでしょうけど(デフォルトでテレビに搭載されている)、当たり前が定着する前だったのでよくわからず「マジで!超得じゃん!」っつって売り切れを心配する勢いでした。チューナーの相場も知らず。いざディレクTV内でFMWが見れるまでエライ騒ぎですよ。今じゃスマホでサクッと入退会できますもんね。でもそれすらも面倒になっていずれは角膜に液晶ブチ込む時代がやってくるんでしょうか。

ちょっと私的な話に及んでしまいました。ホントはもう少々、前置きを膨らませたいところなのですが、あまりに長くなってしまいそうなのでこの辺にしておきます。
今回はFMW後期、つまりエンタメ期を「ディレクTV契約後~終焉」までと定義して、時系列でその歴史と功績を追っていきたいと思います。よくFMWを語る際、この時期は黒歴史というかネガティブな側面がフィーチャーされ、揶揄されがちなのですが、事実は事実として置きつつなるべく前向きに捉えていきたいと思います。
ご多分に漏れず長いです、ご注意ください。

1998年のFMW

前述したように98年3月にFMWはディレクTVと契約を発表します。
潤沢な予算を手にしたFMWは、これまでの方向性と違った方針を打ち出し、新たな路線で邁進していきます。

4月30日、横浜文化体育館。ディレクTV体制となって初のビッグマッチ。
メインはハヤブサと雁之助の二冠戦で、熱戦の末、ハヤブサが奪還します。しっかりと熱戦は担保された上で、セミ以下の試合です。

人生vs金村戦の特別レフェリーとして元ボクシングWBA&WBC世界スーパーフライ級王者である渡辺二郎が登場し、当初は金村贔屓のレフェリングだったが、卑怯さに腹を立てた渡辺は金村を殴打、その流れから人生が念仏ボムで勝利。
これ、今だったらさほど違和感のない展開ですが、当時はプロレス外の人間が介入するのは非常に珍しいことでした。日本では先駆け的な試合と言えるかもしれません。
「日本では」と前置きしたのは、オマージュ元と思われる同年3月29日のWWF「WrestleMania XIV」において、HBKvsストンコ戦で特別レフェリーがマイク・タイソンだったのです。もうこれ以上説明不要ですよね。

豪華ゲストレフェリーのお次は大物外国人選手、ビガロが田中とのシングル戦で来日しています。結果は田中曰く「完敗」でしたが、ECWをもう一つの主戦場にすべく、この頃から更なる頭角を現します。

冬木はFMW来襲後、ハヤブサに次ぐ重要な登場人物として君臨、復帰した大仁田を相手にランジャーバック戦を挑み、見事に勝利すると試合後に今後のFMWに関して極めて重要な宣言をします。
「ショーに一番近いプロレスを目指す」
こうしてFMWは新路線の幕開けを迎えたのです。

WWF「Attitude」

さぁこちらも触れておかねばなりません。90年代後半は多様性の拡大の歴史、一つのことを語るには横にも縦にも広げなければ見えてきません。
太平洋を越えたアメリカのマット界では「Monday night wars」でWCWの快進撃が続いていました。月曜夜の放送の視聴率をWWFとWCWで争っていた時代です。1996年6月10日から1998年4月13日まで、なんと83週連続でWCWが優勢、完膚なきまでの敗北を味わい続けたWWFはこれを打開すべくだったのかヤケクソになったのかアティテュード路線という、喧嘩腰でくだらなくて下品でエロくてハードコア、しっちゃかめっちゃかな方向に転換します。97年から開始されたとされています。
詳細はググっていただくというかご存知だと思いますので省きますが、これがもうバカウケ。いまだに記憶が鮮明なぐらい濃厚に面白かった。WCWという対抗勢力が元気で上位を獲っていた背景も含んだかもしれません。
女子が普通に男子戦線に参加、選手と社長の決戦などプロレスの裾野を広げる目新しい仕掛けの数々も人気を博した一因で、これが全世界に影響を及ぼします。
先ほどのマイク・タイソン→渡辺二郎はわかりやすい一例です。WWFが打ち出したエンターテイメント性をいち早く取り入れたのが、FMW、そしてDDTでした。

荒井社長、爆発! そしてさらば大仁田厚…

この頃はまだ全日本プロレスとFMWが友好関係にあり、5月1日の全日本プロレス東京ドーム大会にハヤブサ、人生、グラジ、黒田、保坂、邪道、外道がこぞって参戦しています。

FMWはユニット抗争が盛んで、ハヤブサ率いる正規軍、冬木軍率いるチーム・ノー・リスペクト(TNR)、大仁田率いるZENがあり、それぞれが主催の興行を開いていました。
5月5日、和歌山で行われた興行はZEN主催。ここでZENはTNRと存続をかけて闘うも敗戦し、解散へと追い込まれます。
FMWの社長であり大仁田と旧知の仲である荒井は、ZENは解散すれど大仁田らのフリー参戦を認めてくれと懇願します。TNRのマネージャーだった伊藤豪は荒井に靴を舐めるよう強要、大仁田は靴にかじりついてせめてもの抵抗を見せる。苦汁をなめた荒井と大仁田は反撃を誓うも、冬木は題して「花いちもんめ作戦」で大仁田包囲網を画策、大仁田の孤立を狙います。

5月19日FMW後楽園。
グラジがフリー宣言。以降より主戦場をECWへと移します。これにより新生FMWの最上位カードだった「ハヤブサvsザ・グラジエーター」を失います。
しかしこの日に行われたハヤブサvs田中が白熱、週プロの表紙をゲットし、混沌とした仕掛けの上にしっかりと名勝負を残します。これ重要。俺たちは今も昔もイイ試合が見たくてチケットを買っているわけですから。

5月27日FMW博多スターレーン。
雁之助の欠場により冬木と金村が新生フットルースを結成、世界ブラスナックルタッグ王者に。フットルースとは元々、冬木が全日本プロレス時代に川田と組んだ際のチーム名。

5月31日FMW石川。
大仁田は最後に残ったパートナーである中川とタッグを組むも裏切りに遭う。中川が「ミスター・ダブルクロス」の異名を欲しいままにし、TNRに加入。これで大仁田は孤立、3月からこの計画は練られていたという。
マネージャー・伊藤豪の口撃は日を追うごとに増し、荒井社長を追い込みまくります。

6月10日、 FIFAワールドカップ・フランス大会が開幕します。こういうのも一応挟み込んでおきましょうかね。

6月19日FMW後楽園。
非道がスーパー・レザーに勝利し、レザーはTNRを解雇され正規軍へ。W★ING、新生FMWとカルト的な人気を博したレザーの出番が段々となくなっていきます。
ECW遠征の壮行試合として田中vs黒田が行われ、田中の穴埋めってわけではないでしょうけど格闘探偵団バトラーツの池田大輔が助っ人として正規軍に参戦します。池田は藤原組時代からFMWと絡みがあり、ブラスナックルタッグ王座も巻いていました。

6月28日FMW八王子マルチパーパスプラザ。
TNRがブラスナックル6人タッグ王座を戴冠。試合後に冬木が「これからはレスラー同士だけじゃなく会社と会社の潰し合い」とコメント。標的は選手だけでなく、荒井社長にも向けられます。
7月4日冬木軍名古屋でも冬木は荒井に社長の座をかけて一騎打ちを要求する理不尽ぶり。
リング外での舌戦も従来よりも多く繰り広げられていきます。

7月6日FMW記者会見。
新制度として統一機構の発表がされます。選手個人ではなくグループとしてFMWと契約する形。正規軍はフェニックスという名称に。

7月10日FMW後楽園。
TNRの奴隷状態だった黒田と保坂が敗者廃業マッチという酷い形式で闘います。黒田が勝利し、廃業の取り消しを訴えるも取り合わず、保坂は廃業に。
TNRがリング上でFMWと公開契約、調印後に冬木が荒井社長を暴行、改めて一騎打ちを要求します。
メイン後、冬木はマイクで「今日から俺がFMWの新社長だ~!」と叫んだり、ハヤブサのマスクを剥がして流血させるわ、さすがは稀代の大ヒール、暴虐の限りを尽くします。
容赦なくバッドエンドで終わるのもFMWらしさかもしれません。いや、最後はハヤブサが前向きな言葉で〆てはくれますが。この日ばかりはハヤブサもブチ切れ、目に目を歯には歯をの構えを見せます。

7月20日FMW水戸。
この日は大仁田が久々に参戦します。TNRが完勝し、試合後に冬木が荒井社長を呼び出し、大仁田と共に蹂躙。廃業に追い込まれた保坂が両者を救出してなんとか収集がつきます。
試合後、温厚な荒井社長が激怒。「なんでこんなことまでされなきゃいけないんですか!×2」「人間には我慢の限界がありますよ!」「やってやるよコノヤロー!」「一生の一度のお願いです。リングに上がることを許してください」と遂にリングに上がることを決意し、同時に伊藤豪の参戦も要求します。
今や珍しくないことかもしれませんが、当時はプロレスラー以外、ましてやアスリート経験すらない素人がリングに上がるなんてことは考えられず、こうした大胆な展開に対して少なからずアレルギーもありました。賛否両論あろうとも、強固な信念で独自の路線に踏み込んでいくFMWの覚悟があってこそ実現した展開です。

8月11日FMW後楽園。
この日から中継の実況は齋藤充(JCTV)、解説は杉作J太郎のエンタメ期を象徴する名タッグになります。ちなみに制作の流れは、まずディレクTVからFMWに制作費が支払われ、制作会社であるJCTVがFMWから制作を請け負う形だったようです。
大仁田との特訓を経た荒井社長がデビュー。Wild Thingに乗って大仁田と共にストリートファイト戦に挑みます。会場は入場時から異様なテンションでした。開始直後もひたすら荒井コール。
もちろん劣勢に追い込まれながらも、竹刀を手にすると力の限り振り回し反撃。大仁田が伊藤豪にラリアット、TFPBとアシストすると、すかさず荒井社長がランニング・ボディプレス!1!2!!3!!! もうホント誰かが火ぃつけたんじゃないかってぐらいの後楽園爆発です。桁違いの盛り上がり。
試合後、荒井社長が「すいません、今日はどうもありがとうございましたー!」「FMWの名前は永遠に不滅じゃー!」と絶叫して倒れこみます。そうです、永遠に不滅ですよね。だからこうして書き残しておかないと。
闘うオーナーはビンスだけじゃありません。

8月22日FMW千代田ビデオスタジオ。
これよりマット、ロープが一新されます。会場名にある通りスタジオマッチです。おそらくチケット販売というより観覧が募集されたのかな?
荒井社長の姪っ子という荒井薫子が登場し、正規軍のマネージャーに就くはずが伊藤豪にさらわれ、洗脳されてTNR側についてしまいます。
7月10日にブチ切れたハヤブサはこの日、ダークサイド・ハヤブサとして初登場します。

8月25日、Windows98発売。9月4日、Google設立。

9月8日FMW後楽園。
女子の中山が伊藤豪を蹴散らし、対戦の機運を高めます。コンバットとくどめの飛車角を落としたFMW女子部に少し盛り上がりの兆しが。
ハヤブサ&池田のタッグがブラスナックルタッグ王座を奪取、池田は二度目の戴冠です。
この日、冬木がエンターテインメント・プロレスの始動を明確に宣言します。

11月20日FMW横浜文化体育館。
大仁田厚vsミスター・ポーゴを最後に大仁田がFMWを離脱。
メインの二冠戦に挑んだ冬木がハヤブサを下して王者になると同時に同王座の封印を明言。「大仁田の色は今後一切消す」としてベルトの新設にも言及。
ちなみにディレクTVが全日も放映していたことから、参戦を宣言して三沢にメッセージを送るもこちらは実現できなかった模様です。
それはさておき、創始者・大仁田の離脱、ベルトの一新を宣言したことで更なる変化を続けるFMW。週プロの表紙はTNRが勢ぞろいして獲得。リニューアルをこれでもかと打ちだします。
その後、単身で新日本プロレスに乗り込んだ大仁田の大活躍は言うまでもないですよね。賛否を喰らい尽くし、個の力で世間を巻き込んでしまうメガスターは、やはり一つのピースとして収まる器ではなかったということでしょうか。

12月に入るとFMWは大規模なシングルトーナメント「オーバー・ザ・トップ」を開催。他団体からはモハメド・ヨネ、折原昌夫、小野武志らが参戦。
ハヤブサが軽視したことから男・大矢が大噴火し、一回戦でハヤブサ、二回戦で冬木を二タテ、更に準決で上り調子の黒田をも下して決勝戦に進出しました。大声援に包まれた大矢は、新日出身らしく「1・2・3・ダー!」で〆ました。やっぱトーナメントは波乱を含んでこそナンボですよね。メチャクチャ盛り上がりました。

12月12日、13日FMW後楽園2DAYS。
FMWの親戚ともいえるアメリカ第3の団体、ECW勢が大挙して参戦してきます。今考えると非常に豪華。年の瀬におせちより贅沢なカードに酔いしれたわけです。
当時のECW世界ヘビー級王者、シェーン・ダグラスは初日に外道、翌日にトミー・ドリーマーとタイトルマッチを行いました。
ECWがこの試合を放送していたことから、例えばダグラスvs外道はWWEネットワークで見れますよ。

サブゥー&RVDvsハヤブサ&ドリーマーのエースタッグなんて垂涎モンでしょう。もちろんダッドリーズも参戦していました。
エンタメ期より以前から交流があり、ちなみに3WAY形式はECWがFMWに輸出したものです。当初は生き残り戦でした。現在のフォールorギブ獲ったモン勝ちはトリプルスレッドマッチなんて呼ばれ方をしていたかと思います。

FMWはいわゆるインディー団体と呼ばれていましたが、中でも最大の勢力を誇った団体でもありますので、もともと入れ替わりが激しく、他団体からの参戦も多けりゃこうしてECWが丸ごとやってきたり、簡単にサバイブできる場所ではなかった。ということはわかったかと思います。
名選手が揃って熱戦も保証されていて、脂がのって勢いのある世代が横並びになって群雄割拠し、実行力のある冬木、そして人前に出て感情をさらけ出せるどころか試合にまで臨んだ荒井社長たちが決起し、エンタメ・プロレス路線の地ならしをしたのがこの年、98年だったのではないでしょうか。

激動の98年を終え、99年へ…と言いたいところですが、その前に重要な点を一つ。

ECWと田中将斗

さて少々触れたECWについてもうちょっと掘り下げてみましょう。つながりが深く、立ち位置も団体の行く末も類似するこの団体を避けてFMWは語れません。
大仁田、FMWが生み出した独自のデスマッチ路線にインスパイアされたECW代表のポール・E・デンジャラスリー(現在のポール・ヘイマン)は、これまた独自の過激なプロレスを作り上げ、椅子や机やラダー、炎が飛び交うハードコア・スタイルを確立。かといって過激一辺倒ではなく、後にWCWとWWFで活躍するエディ・ゲレロ、クリス・ベノワ、ディーン・マレンコ、更にメキシコ勢やみちのくプロレス勢を招聘したり、多種多様かつ上質なレスリングが見られる紛れもない理想郷。
日本からはTAJIRIがメキシコ経由で合流し、スペル・クレイジーと名勝負を重ねていました。

再度98年を時系列で追います。
まず1月3日放送の「ECW HARDCORE TV」で、アナウンサーのジョーイ・スタイルズが解説をしながらFMWの試合を紹介していました。なので現地のファンはFMWがどういう団体かの情報が共有できる土壌があったということです。ちなみにこちらもWWEネットワークで視聴可能です。

土壌があるECWへ田中が長期遠征したのは6.19の壮行試合の後ですが、その前の3月に単発で参戦しています。
全日本プロレス、WWFで活躍したダグ・ファーナスとのシングルマッチが組まれ、FMWのバスタオルを羽織って入場し、健闘を試みるも手が合わず、唐突なフィニッシュにブーイングが飛んでしまう結果でした。最初から巧くいったわけではないということです。

しかし長期遠征に入ってからは覚醒、実績を積み重ねます。
7月4日放送の「ECW HARDCORE TV」ではボールズ・マホーニーとのシングルが組まれます。タフな試合展開で会場を沸かせ、好敵手に巡り合い、勝利も収めました。
翌週にはグラジことマイク・アッサムとのシングル。勝手知ったるライバルとの試合は内容保証、目が肥えたECWファンを唸らせます。
その翌週はトレイシー・スマザースをシングルでスイングDDT葬。
8月1日放送分ではジェリー・リンと組んでマイク&ジャスティン・クレディブルと。

8月2日のPPV大会であるHeat Waveでは、ハヤブサ&人生が最初で最後のECW参戦、サブゥー&RVDとハチャメチャな試合を繰り広げ、田中はマイクとのシングルで勝利し、FMW勢が大会を盛り上げます。

9月に入るとビガロとの再戦を行い、週をまたいで抗争します。
マホーニーとまたも好試合を繰り広げて健闘を称え合い、共にダッドリー・ボーイズとの抗争へ。
特筆すべきは10月24日放送分。マホーニーvs田中の試合途中でダッドリーズが乱入、そのままの流れでマホーニー&田中vsババレイ&ディーボンに。ダッドリーズはこの二人だけじゃなくたくさんメンバーがいたんです。なので多勢に無勢だったのですが、乱戦の中で勝利をもぎ取り、大いに会場を盛り上げて番組はエンディングを迎えました。

そして迎えた11月1日のPPV大会「NOVEMBER TO REMEMBER 1998」でマホーニー&田中vsババレイ&ディーボンのECWタッグ王座戦でも勝利し、見事ベルトを戴冠。翌週にすぐ取り返されてしまうも、内容も結果も認知を深めたことに違いはないでしょう。
どうもマイク(グラジ)とのシングル戦とシングル王座戴冠だけがフィーチャーされがちですが、マホーニーとこうしてキッチリと流れを汲んだ上でのタッグ王座戴冠も輝かしい実績の一つです。

12月12日放送分では、クレディブルをダイヤモンドダストで沈めています。
そして年明け、遠征を終えてFMWに凱旋帰国するわけです。

というわけで98年分を終わります。続きはまた今度。
ちなみにこの年のプロレス大賞MVPは小橋建太(全日本プロレス)が2回目の受賞でした。殊勲賞に冬木が輝いています。

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