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沖縄帰省中の感想 その3

赤子も寝たことだし、懲りずに書くぞ感想を。「ピザは熱いうちに食え」だ。いや、僕が勝手に作ったことわざだけど。あっつあつで美味しいピザは冷えてチーズが固まったり本来の美味しさを損ねる前に食ってしまえという意味。勢いだ、勢い。

というわけで。沖縄で気づいた/感じた事をつらつらといくぞ。

ウォーキングデッドみたい

これは住宅街を見て家人が放ったセリフ。ひとの故郷に対し随分と失礼だ。しかしその時僕はウォーキングデッド未視聴。失礼だとフンガイする事は逆にウォーキングデッドに対し失礼なのかもしれないと思いとどまる。

ウォーキングデッドとは、かの有名なアメリカのテレビドラマだ。家人が某所でハマって見ている。しょうがないので、一昨日一話だけ視聴。「見ないことにはdisれない」これも僕の作ったことわざだ。言い放ったら、意地が悪いと友人に爆笑された良い思い出がある。

話を戻して。視聴したら何となく分かった。まず沖縄の家は基本鉄筋コンクリートで、それがずらりと並ぶ様は日本っぽくない。「沖縄 家」で画像検索すると沖縄の伝統的な赤瓦の家の画像が出てくるがそうではなく「沖縄 住宅街」で画像検索するとその景色が分かるだろう。比較として「東京 住宅街」もついでに検索して見るとより印象の違いが分かる。とはいえ「アメリカ 住宅街」とも違うわけなのだが、『海外感』をまずは感じる。(実際にアメリカ人移住者は近所に増えましたが)

そこに、『寂びれ感』が加わる。沖縄の強すぎる紫外線が建物を白く焼き、台風が潮風を当てていくので錆びやすい。表からは結構くたびれているように見えるのだが、どこも同じようなものなので浮かない上に建物自体は頑丈なので、中で普通に生活している分にはあまり気がつかない。それに昼間ハッキリと寂びれが見える時間帯は表に出たくない日差しなのでよっぽどな事が無い限りまじまじ確認しないのかもしれない。

更に、植物の生命力である。刈っても刈っても草が蔓延り、手入れをするのもめんどいししんどい。ちょっと気を抜くと、である。更に今時期は『うりずん』の季節だ。うりずんは、春分の日から梅雨入りまでの時期、「潤い初め」の事を指すが、植物が動きやすい季節。

きっとその合わせ技で、見慣れぬ人には「人類が脅威に晒され、ある程度時が経って管理する者もおらず荒れてしまった海外の建物や自然」に見えるのだと思う。

実際草の生えきった空き地にボロボロの寂びたトラックが捨てられているのを見た時は「ゾンビにでも襲われたかな・・・」と未視聴ながらに思った。

鬱蒼としている

※住宅地の狭間

敬語が使えない

空港の土産屋で店員に「これをいくつですか? 2?3?」と聞かれた家人は「えっ!?」と一瞬絶句してしまった。

店員は敬語も知らぬ若造ではない。ベテランの風格である。関東では「普通に敬語を使いこなすと見なされる人」から放たれるこのタメ口、なかなかのインパクトである。

しかし僕は懐かしさを覚えた・・・違うよ、ナメられているわけじゃない、多分本人は「敬語を使っているつもり」なのだ。だって、「いくつですか?」で一回「ですか?」と丁寧に言ったじゃない・・・まさか「2?3?」もそれぞれ「おふたつ、みっつ」と丁寧に言い換える必要があるとは思っていないんだよ・・・英語みたいなもんだよ、twoもthreeも敬語つけないじゃん・・・と。

沖縄の変な言葉遣いで有名なのが「○○しましょうね~」で、県外の人を惑わす変敬語。「私がそれをします」と伝えたいが「あなたがそれをしてください」と受け取られる(そらそうだ)。

また、沖縄の女性は一人称が自分の名前、もしくはあだ名だったりする。「幸子」という名だと「さーちー」が一人称だったりするという事だ。そこで慣れぬ敬語を使おうとして一人称が「私」ではなく「自分」と言ったりするので「自分がやりましょうね~(私がやります)」となる。関西では「自分」が相手の事を指す場合もあるので「お前がしろよ」と受け取られる恐れがある(なんてこった)。

敬語が下手なのは、かつて「方言札」があったからだろうか。その昔、日本本土との言葉のギャップの大きい沖縄の教育の現場で熱心に行われていた罰で、沖縄の方言を使うと首から「わたしは方言を使いました」というような言葉が書かれた札を提げる。次に誰かが方言を使うとその子の首にそれが移る。僕の父も提げた事があるようだ。見せしめであり恥ずかしいものであった。しかしその時代、教育の現場でいくら標準語を話す努力をしようが家に帰れば両親や祖父母が方言を使っていた。子どもどころか大人だって日本の標準語に苦労していたわけで、いわんや敬語をや。

方言札を回している間に戦争になり、戦後は米軍による統治が1972年(昭和47年)まで続いたと考えると、やはり周囲の大人が正しい敬語を身に付ける余裕は無かったんじゃないかなぁ。テレビもネットも揃った時代に育った若い人の方が標準語を沢山聞いているので上手いです。

なので多少は不慣れな敬語が馴れ馴れしく聞こえても、無礼だとカチンとくるのではなく、優しくしてやって欲しい気がする。日本の、そういう所だぞ。

また、沖縄の人がフレンドリーと思われる要因の一つはコレじゃないかと思う。敬語、話しているつもりなんですよ?

花の色がクッキリしている

白い花はあまり売れないと聞いた。赤やオレンジのハッキリとした色などは人気だ。やはりこれも紫外線が強いからだろう。

埼玉に来て、ソメイヨシノの淡いピンクや鈴蘭や勿忘草の可憐さ、このごろだと藤の美しさに胸がときめきまくっている。この淡さ、薄いグラデーション、儚く散っていく花弁、たまらない。

これは花ではないが、初めて生で柳を見た時に、その涼やかさに「こりゃぁ和歌の一首も詠みたくなりますわな」と腑に落ちた事を覚えている。線の細さというか。雅さを感じた。クッキリしっかり生命を感じるガジュマルの気根やアダンの実、アカバナー(ハイビスカス)で和歌を一句という気にはなかなかなれない。僕が俳人じゃないだけかもしれないけどね。

†おしまい†

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以下、有料部分には「お礼」と「関係の無いオマケコーナー」くらいしかありません。

↑の記事を読んで、浅木にコンビニのコーヒーRサイズ一杯くらいオゴってやろうという人がいるのならどうぞお願いします。それ飲みながらまた記事書きます。

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