見出し画像

木々と語らう時間



大きな手をぴんと真横に広げ、通せんぼをする。

そんな意地悪かつ堂々とした木々が立ち並ぶ中、枝のようにか細い一本の小さな幹が目に入る。折れないようにと支柱が添えられていたので、恐らく植樹されたのだろう。
まだ寒さが残る季節。この木がいつ植えられたのかはわからないが、これから柔らかな色彩の春になり、嫌な湿度を携えた暑さの夏を経て、空気が乾燥した晴天の秋、キラキラと眩しい樹氷の冬。
そんな季節を巡り、この小さな木はぐんぐんと伸び立派な幹となり、青々とした葉を付けるのだろうか。それとも既に何度も季節が巡った結果、このサイズなのだろうか。ふと、身長に伸び悩む息子の事を思い出した。
毎年この場所を歩く楽しみが一つ増えた。

歩き進めると、今度は根本から不自然に斜め方向に曲線を描く木が見えてきた。近くにある木々も同じ方向に同じ角度でぐにゃんと曲がっている。
あれは高校生の時。部活を終えて帰宅する時に外へ出た瞬間、ビュオーッ!と乱舞した髪の毛で視界が真っ黒になった。黙って立っている事が不可能な風。風速何メートルあったのだろうか。あんな強風は何十年経った今でも味わった事がない。
迎えに来てくれた母が「車が飛ばされそうで怖かった」と、怯えていたっけ。
この木もあれか。酷い強風に耐え続けた結果、この角度で固定されてしまったのか。ある意味“順応性が高い”“柔軟性がある”という捉え方も出来る……か?

更に進む。
次に見えてきたのはぐねぐねと曲がる枝。一定の太さを保った枝は一見硬そうだが「見てな、無理やり曲げてやるぜ」と言わんばかりの派手な曲がりを見せつけてくる。しかもこの時期はまだ葉が付いていないので、黒々と強そうな枝がもじゃもじゃしているだけで謎の迫力がある。
こういった木は夕方若しくは夜に見ると不気味で特有の雰囲気があり、とても良い。夜雨に濡れると、尚良い。
そういえば昔、真っ黒な木の影に追いかけられる夢を見た事があったな。あんなに怖かったのにな。

「はい!」という声が聴こえてきた。
目の前には斜め上に真っ直ぐ伸びる枝。
キッパリと直線的に手を上げた姿と、その向こうに映る青空。実に清々しい。
参観日に緊張しながらも手を上げた時。青信号の横断歩道を手を上げて渡った時。
そんな幼い頃の我が子の後ろ姿が目に浮かぶ。取り戻せない懐かしさに目が眩んでしまいそう。

木々の隙間から突然現れる青い象のすべり台。
傍には両サイドにお馬さんが付いたシーソー。
ここで遊んだのは何十年前だっけ。所々塗装が剥げた象も馬も、何十年も“そこに在るだけ”。
その若干の気味悪さが癖になる。ついつい“まだ在るか”確認したくなる。
存在意義なんていう言葉はここには不要。“ただ在る”だけで安心する事も、ある。




葉が茂った木も良いけれど、枝だけの木も良い。
どうやって伸びてきたのかもわかるし、逞しく生きてきた様子が見て取れる。
同じものなど一つも無い。

そんな木々の中を歩いてみると、その木や枝の姿に自分の記憶が甦り重なっていく。
自分にとって自然に触れるとは、きっとそんなものなのだと思う。

私は時折自分というものが見えなくなる事があった。
これまで「多重人格なのでは?」と本気で考えていたのだが、それは違うのかもしれないと最近勘付いた。あなたって、自分と他人の境界線が無いのかも。と言われた時にはっとしたのだ。
その人に合わせてその人用の自分を作っていただけで、そもそも“本当の自分”なんてもの自体無かったのかもしれないと。ちょっとショックだった。

ずっと自分探しをしていた私は、それを機に探すのをやめた。
もっと自分勝手になって、自分を大事にしたい。今は子どもの為に生きている事も間違いないが、これからはこの無骨さもあり、柔軟さも兼ね備える木々のように生きてみたい。

私の記憶にはどんな瞬間も目に映る自然があって、音楽、匂いがある。
当たり前だけど、どの瞬間も間違いなく私だった。

そんな事を気付かせてくれた木々達に、今日も感謝を。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?