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嫌いな人、いてもいい。

最近わかったことがある。

私は万人と仲良くしたかったらしい。


大学生になるまで、嫌いな人がいなかった。周りの人が優しかったからとか、いい人に囲まれてたからとかそんなことは全くない(と思う)。思い返せば、パワハラもセクハラもモラハラも色々受けていた気がする。運動部で受けていたずさんな扱いも、親からの当たりも理不尽な事が多かった。

小さい頃、よく親に怒られていた。
理由やきっかけはよく思い出せない。いつも怒鳴られて泣いて謝っている記憶だけが残っている。いつ頃からだろうか、感情が壊れていた時期がある気がする。本能で、「自分の感情に鈍感になって、記憶力を落とす」ことによって、何とか生きていた。だから幼い頃の記憶はほとんどなく、とても断片的だ。よく思い出せない。その場その場で母親が望む形に自らを変え、なんとかその場を凌いでいた。自分が何が好きで何が嫌いで、本当の自分が何かも分からなかった。


大学生になるまで、ほとんど人付き合いがなかった。学校の友達と遊びに行くことはほぼなく(年に片手に収まるくらい)、仲が良いと呼べる人も居なかった。人と深く関わる機会はあったのに、親以外の人とまともにコミュニケーションをとることがほとんどなかった。部活には入っていたが、部活の人とはそれに関係する話しかしなかったから、会話はほぼ全て業務連絡に完結し、それ以上話すこともなかった。この時の負債を今支払っていて、人となんでもない事を話せない自分が嫌になることが結構ある。

友達が欲しかったんだろう、本能的に私は他人が馴染みやすい人間に形を変え、長い間自分をいつわりながらおちゃらけた性格を演じていた。本当は話すのが苦手で陰湿な性格なのに。素の自分を受け入れてくれる人は居ないという軽い絶望感のもと、人を信用出来ないままなんとなく足元の安定しない人間だった。
広く浅い人間関係に鬱々としながら、自分が気軽に誘える仲の友人を渇望していた。


ここ1年で自分の好きがハッキリしてきた。そして、嫌いな人ができた。

就活をしたのが大きかったのか、自分のことがよくわかったタイミングで、好きなもの嫌いなもの、嫌なこと、一緒にいたい人をしっかりと認識できるようになった。今は自分が嫌いな自分でいる必要のなさを理解出来る。一緒にいる相手はちゃんと選ぶべきなんだ。苦手な人、嫌いな人をきちんと分かっておくべきで、無理する必要は無いし楽しいフリをする必要もない。はねのけて、手放す選択を取れるようになったと感じる。


大学4年になった今、自分で仲が良いと言える友人を何人か挙げることが出来るようになった。ずっと友達だったのに自分がそれに気づけていなかったり、短い期間でとっても仲が良くなった子がいたり、一度お互い拒絶しあってもう一度歩み寄れたり、形は様々。でも、今ならご飯に行こうと誘える相手がいる。会いたいと思えて気軽に連絡を取れる人がいる。自分にとってそれは安心できる居場所で、自分が欲しかった収まり場所なんだと思う。ここにいてもいいんだと深く自分を委ねて、居心地がいい場所。

社会人になったら活動拠点が変わり、新しくまたコミュニティを築いていくんだろう。広く浅く私を緩く繋ぎ止めていた関係は一旦お休みして、居心地のいい手の中にすっぽりおさまる温かい場所を作りたい。大丈夫、私は自分の変わり方を知ったから。操り人形だった日々にきちんと手を振ることができたから。

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