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#4 不寛容

【公開するの不謹慎やと思ってしてなかったけど、#10書いてる途中で見返して投稿してみてもいいかなって思いました。内容があまり良くないかもなので、不快に思われた方がいらっしゃいましたらコメントにお願いします。非公開にします。】

最近自分が不寛容やな〜って思う(思わされる?)出来事がいくつかある。もともとそんなに心が広い方ではないことは自覚してるつもりやけど、最近ほんまに何回も「もっと心に余裕持とう」って思う出来事が多かったから一応議事録的に残しておこうと思う。

一番自分が不寛容やなって感じたのが、障がいについて友だちと話した時。以下わたしの主観、おそらくある人にとってはかなり不快な内容になってしまうかもしれません。すみません。

留学に来てから、"disability"っていう言葉を幾度となく聞く。みんな自分の障がいに対して結構オープンやし、プラスそれを可能とさせる土壌が整ってるように感じる。例えば、身体的障がい者の方がめっちゃいっぱい働いてる。特にキャッシャーと掃除をしてくださる仕事。大学のキャンパス内にはダイニングホールがいっぱいおるから必然的にキャッシャーをしてくださる方がたくさんいるんやけど、結構な確率で身体障がいを持っている人がいる。他にも、ショッピングモールとかには基本電動の車というかカート(?)みたいなのが置いてあって、足腰があまり良くない人たちがモール中を自由に動ける設備が整ってる。本当にこういうところ、素敵だと思う。日本でそんなことあまり聞いたことなかったし、あんまり障がいの方自体見かけること少なかったから新鮮で、ただただ施設の整い具合に頭が上がらない。

ここまではいい話で、本題に入ると、今までは身体的な障がいについてフォーカスしてたけど、自分が不寛容やなって感じたのが精神的な障がいを持っている人と話した時。

友だちの中に、精神的障がいを持っているかつそれを隠さない人が結構何人もいる。もちろん医師から正式に診断もしてもらって、定期的に病院に通ったり学校にも取り合っているみたい。そういう人たちとお話するときに、どうしても心の中でモヤっとした感情を抱いてしまうことがある。

その代表例が、課題について話すとき。一人、わたしと同じ授業を取っていてさらに結構一緒に話す機会がある精神障がいを持っている友だちAがいる。Aは結構趣味がはっきりしていて、夜な夜なゲームをしたり、趣味に注ぎ込む時間が多いのは話を聞いてて明らかだった。そんなとき、その友だちがわたしともう一人の友だちBとお昼ご飯を食べながら期限ギリギリの課題をしていた。わたしと友だちBは、友だちAに、「もっと早く課題してたらよかったのに〜」というと、Aは「僕は大丈夫だよ、disabilityでaccommodation(日本語何やろ?融通?配慮?)があるから」とケロッと言っていた。なんか、焦りとかそういうのはなく、遅れても当たり前に許されるみたいなそんな雰囲気だった。正直自分の中でもやっとした気持ちが生まれた。「disabilityのせいでどうしてもdue dateに間に合わせれないんだよね」。そんな言葉がAの口から続く。どうしてもわたしは、(わたしだってdueに間に合わせるの簡単なことじゃない、でもなんとか計画立てて頑張って間に合わせてるのに)みたいな不寛容な気持ちを抱いてしまった。

(この記事を書いてからもこの友人Aは、「この前行きたい祭りがあったんだけどもう授業休めないんだよね、だから僕のセラピストにaccommodation書いて!ってお願いして授業また休んで祭り行ってきたんだよね。でも単位は大丈夫、accommodationがあるから!」って言ってて、その自信満々な態度にまたモヤッとしてしまった。)

留学する前から、精神障がいとか発達障がいについては勉強していたし、実際周りにもそれで苦しんでいる人もいたから、理解はしているつもり。でも頭では理解していても、わたしの中の正直な心は理解していないみたい。正直、課題の提出とかって「大体みんなにとって簡単なことじゃないし面倒なことやから、みんなある程度頑張って取り組むもの」前提があるように感じる。だから、自分も努力してやり切ってる分、障がいを"やらないのが当たり前"みたいな理由にして悪びれることもない様子が多分もやっとさせるんやろうななんて。でも多分その解釈は間違ってるんやと思う。その「頑張る」ことのハードルの高さが多分違うんやろうし、本当にやれないのだろうし、「悪びれもなく」っていう言い方は良くないんやと思う。だってやろうとしてないわけじゃなくて、やるのが難しいねやろうから。悪びれる必要もないというか、そういう特性やから仕方ない。でも、、、、、そういう頑張るっていうものが個人の裁量で、曖昧なものやからこそ「障がいやから」ってサラッと言っちゃう人に対しては「初めから諦めてるだけじゃないの?こっちだって同じ量の課題頑張ってやったんですけど」みたいな気持ちになっちゃう。結局は自分の努力が認められたい、自分の承認欲求が現れてるだけなんかなと思ったりもする。これが、「障がいを認めない人は良くない」みたいなある程度の社会認識(みたいなの)があるから、おおっぴらにこういう「障がいを大々的に理由にしてしまう人にちょっとモヤモヤしちゃう、、」みたいな悩みを他の人に相談できないのが余計にモヤモヤが増幅する理由でもある気がする。

ここまでこんなこと言ってきたけど、実は自分も自分が精神的な障がいじゃないかな?と疑ったことが今まで何度かある。特にHSP。個人的に、自分はめっちゃ気にしいやと思う。し、実際他の人からも「そんなこと誰も思ってないと思う」って言われることが多い。人の顔色伺い続けて、自分の発言に対して夜中に反省会開いて、次同じシチュエーションきたらどうしようって考え続けたり。こういうときにいつも「自分もHSPなんかな」って考えが頭によぎる。でもその度にこうも考える。「自分がHSPとか烏滸がましくない?ほんまにHSPって絶対わたしよりも気にしいで困ってるよな、てか大体の人って生きづらいと思ってるやろ、わたしだけが特別なわけじゃない、自分がHSPとはほんまにHSPで苦しんでる人に対して失礼や」って思ったりする。また、日本で「自分はHSPです」って公言してる人に対して違和感を抱くこともあった。「ほんまに?別にあなたがわたし以上に人の言動に気つかってるようには全く感じられへんけどな、このわたしよりも気つかってなさそうやで」みたいに思っちゃった。逆にいうと、自分がHSPやって思って友だちにそう言ったら、こんな感じで「いやお前は違うと思う」みたいに言われる危険性も孕んでる。こんなん自分がHSPって言えるわけない、自分は多分HSPじゃない。みたいな結論に辿り着いた。堂々巡りやけど、HSPの存在って、その存在自体が矛盾してると思う。HSPって自覚するくらい気にしいな人は、自分がHSPって語ることにより生まれる結果に対しても気にして自分はHSPじゃないって結論づけるんじゃないやろうか。

的な感じで、なんが「障がい」っていうカテゴリーめっちゃ難しい。自分では障がいやと思ってても、他の人からしたら「いや、障がいじゃないやろ」って思われる可能性もある、なぜなら「できる・頑張れる」の物差しが違うから。やから、ほんまは発達障がいみたいなのにカテゴライズされてもおかしくないくらい先天的に忘れやすい(発達障がいは先天的なやつですよね?)人の中で、もしかしたらそれをいろんな努力とか工夫でカバーしてる人もおるかもしれへん。(そんな努力できる人は障がいっていわへんのかな、でも努力の仕方とかって後天的な要素もあるんじゃないって思ったり。こういう考え方が自分の不寛容の原因なんやろな)またもや本来障がいって言われるレベルじゃないけど努力を怠っているだけで、なんとなく障がいやと思い込んじゃうケースもなきにしもあらずよね。こっちの方がタチ悪いけど。だって他の人も努力してなんとか生きてるって人もいるのに、ただ言い訳してるみたいな感じになっちゃうから。

そんなこんなで自分の中にある正直なモヤモヤでした。友だちとかには言えないようなことだからここで匿名性を利用して投稿してみます。このことは本当にsensitiveな話題やから、やっぱりダメやと思ったら消します。