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「まさか自分が?」肺がんと診断されて知った本当の自分【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

■がんになって初めて覚えた生への執着

 2006年にスタートした「ニュースウォッチ9」のキャスターに就任してから一年半がたったころ、局の健康管理室に呼び出された。医師は、定期検診のX線フィルムを見ながら「右の肺の上部に影がある。できるだけ早く専門病院で精密検査を受けたほうがいい」と言って、その場で紹介状を書いてくれた。告げられたのは、肺がんの疑い。

 え? まさか自分が?

 ふわふわした気持ちで仕事部屋に戻った。不安を心の中に押し込めて、なにごともなかったようにスタジオに入った。

 翌日から、仕事を続けながら病院に通い、検査を繰り返した。

 表面は取り繕っていても、内心はものすごくうろたえていた。どうして自分が? 以前に吸っていたタバコがよくなかったのか? 何かのバチが当たったのか?

 さんざん銃弾やミサイルの下をくぐりぬけてきたではないか、何をいまさら怖がっているのか、と自分でも思った。確かに、すぐ近くに爆弾が落ち、目の前を銃弾が飛び交った。そして、たくさんの遺体。死はいつも身近にあった。だけど、その「死」は常に他人のもので、死ぬのは俺じゃない。俺だけは大丈夫。そう思っていたのだ。

 紛争取材のいちばんの怖さだ。「俺だけは大丈夫」と思う時点で、すでに感覚が壊れている。だが本人はそれに気付かない。私もそうだった。

 同時に、いつ死んでも構わないとまで私は本気で思っていた。「どれだけ生きるかじゃない、どう生きるかが問題だ」
 
 確か手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』(秋田書店)で読んだと記憶しているこの言葉を大切にしていた。どこで命を落とすかわからないのだから、その瞬間までをどう生きるか、それだけを考えればいい。本気でそう信じていた。

 詳細な検査と治療方針を決めるため、番組を休むことを決めた。詳しい事情は編集責任者の西村くんを含む数人にしか伝えていなかった。最後の日、放送終了後に、スタッフには体調不良とだけ説明したが、私の話しぶりから、みんなだいたいの事情を察したようだった。

 そしてほどなく、患部の摘出手術を受けることになる。入院手続きで記入するアンケートにあった「余命宣告を希望しますか」という項目。死が一気に身近に迫った。
 
 手術の前は不安で何も喉を通らなかった。こんなことは初めてだ。がんの場合、どんなに検査をしても、手術で開いて患部の病理検査をしてみないと、最終的に診断が確定しないこともある。

 死にたくない。少しでも長く生きたい。

 どれだけ生きるかじゃない、どう生きるかが問題だ。ずっとそう信じてきた自分は、実はただ強がっていただけで、本当は弱いんだということを思い知らされた。自分の気持ちがこんなに萎縮して小さくなってしまうなんて、想像もしていなかった。

 娘が、肺がんに関する解説本を持ってきてくれた。娘は、理系の出身で製薬会社に勤務していた。よかれと思ってそうしてくれたのはわかる。しかし、そんな本、読みたくない。それが、そのときに湧いた正直な感情だ。娘には何も言わず本は棚の隅に押しやって、私の気持ちをかみさんにだけ伝えた。

 入院中は、かみさんが通いで来てくれていた。ある日の夕方、病棟のエレベーターホールまで送っていくと、別れ際、突然、こう言った。

「親より先に死ぬのは、最大の親不孝だからね」

 言われた、と思った。がんになった人間にかけるにしては酷な言葉のようだが、いつ死んでも構わないとうそぶいていたのは私のほうだ。

 戦場を渡り歩くあいだ、前線での非日常が私の日常だ、などと思っていたけれど、いつのまにか人としての自然な感覚が麻痺していたのかもしれない。当時の自分を客観視してみると、座右の銘にしていたブラック・ジャックの言葉は、自分が正気に戻らないためのおまじないだったに違いない。

 かみさんは、それを見抜いていたのか。きっと、とっくにわかっていたのだろう。

いや、「この人の考えていることはまったくわからない」「こうと決めたら何を言っても聞かない」と、諦めていたと言うほうが正解かもしれない。「NHKから連絡があるときはよくない知らせだ」とだけ言い置いて、何年もろくに家に帰らないような生活をしていたのだから。

 私が「がんかもしれない」と言われたとき、かみさんはこんなことも言った。

「もう後戻りはできないよ」

 慰めだったのか励ましだったのか、いまとなっては本人もよく覚えていないようだけれど、私なりに「前を向くしかない」と発破をかけられていると受け止めていた。

もしかしたら、かみさんは自分自身にもそう言い聞かせていたのかもしれない。

(構成:長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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