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「あさイチ」震災特集で“ちゃぶ台をひっくり返して”でも伝えたかった違和感【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

「あさイチ」がスタートして約1年後。東日本大震災が発生した。
 
 2011年3月11日は金曜日だった。私は、「あさイチ」の生放送を終えて、午後2時過ぎの便でソウルに向かっていた。韓国で女性に人気のエステや美容整形など最新のトレンドを、“おじさん”がリポートするという企画だった。

 仁川国際空港に到着して、携帯電話の電源を入れたら、怒濤のように地震速報のメールがなだれ込んできた。荷物を受け取り到着ロビーに出ると、大きなモニター画面が日本の東北地方で起きた地震のニュースを伝えていた。巨大な津波が田畑を飲み込んでいた。

 すぐにも帰国し現場に飛んで行きたかったが、引き返そうにも、羽田も成田も閉鎖している。携帯はつながらない。NHKのソウル支局に行って、電話を借り、何度かかけてようやくつながった。東京は予定どおり取材してきてくれと言う。記者としての本能が染み付いた私にとっては釈然としなかったが、とにかく割り切ってソウルでのロケを続けた。

 日曜日の午後に羽田に戻った。翌日からの番組をどうするか。さまざまな議論があったが、いつもどおり「あさイチ」をやろうということになった。震災に関する生活情報を中心に出せるものを出そう。現場に行けるディレクターには行ってもらおう。

 月曜日のオープニングで、いつものように、イノッチ、有働さん、私が並んだ。三人とも示し合わせたわけではないが、それぞれが自分の気持ちに正直に思いを伝えるしかないと考えていた。

 それからの一カ月は、すべてが手探りだった。少しでも番組を見てくれている人の役に立つ情報を出そう。みんなそれだけを考えていた気がする。

 簡易トイレの作り方や節水の方法から始まり、避難所での過ごし方、とくに妊婦や小さな子どもに何が必要なのかを考え提案した。日本ではまだ普及していなかった液体ミルクに関する問題を取り上げたこともある。避難生活が続くと食事が単調になるため、少しの工夫でおいしく食べる方法を考えたりもした。被災地以外の人に向けては、支援金・支援物資の届け方や、ボランティアの受け入れ情報を伝えた。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故について扱ったのは、放射性物質の食べ物への影響。専門家の知見を借りて検証した。原発事故の状況や原因はニュースでも報道される。「あさイチ」は、事故によって引き起こされた現実とどう向き合い、日々どう暮らしていけばいいのか、そのことを第一に考え、伝えようとしていたと思う。その意味で、まさしく生活情報の番組だった。

 毎日、放送が終わると反省会をする。その場で、担当したディレクターが泣き出すこともあった。あれが足りなかった、あそこがよくなかった、と。誰かに批判されて泣くのではない。本当に伝えなければいけないことを、番組のなかにどれだけ入れ込むことができたのか。真摯に向き合って、そこにたどり着けていない自分が不甲斐なくて涙する。私はそんな場面をそれまで見たことがなかった。

 私は出演者の一人として心に決めていたことがある。いかにも悲しそうな表情を作ることだけはしない。辛いですねなんて、おためごかしの寄り添い顔でテレビに映ることは耐えられない。自分が被災した当事者になったつもりで問題に向き合おうと努めた。

 我々は誰のために何を伝えようとしているのか。震災の後の「あさイチ」の現場では、みんなそれぞれに真剣に考えていた。

 その年の10月最終週、「あさイチ」は「福島キャラバン」と銘打って、福島県内各地から生中継を行った。会津若松市の東山温泉、いわき市のスパリゾートハワイアンズ、福島市の果樹農家、南会津の大内宿。それぞれの場所で、そこで暮らしている人たちがどんな日常を送っているのかを紹介した。

 よく来てくれたと喜ばれた一方で、NHKは放射能の安全キャンペーンをやっているのかという批判もあった。賛否どちらからも意見が来ることは十分にわかっていた。でもそれを怖がっていては我々の役目は果たせない。無難に「フクシマ」「被災者」「原発事故避難者」とくくった瞬間、問題の本質は見えなくなる。だからこそ現場に出向き、一人ひとりの姿、一つひとつの事実を丁寧に伝える必要がある。それは震災でも原発事故でも同じだった。

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 震災後初めて故郷・会津に帰ったのは、発災から2カ月半後の5月末だった。「あさイチ」の「福島キャラバン」の5カ月前である。

 長距離バスで東北自動車道を北上し、那須塩原、白河を抜けて、郡山で磐越自動車道に入る。磐梯山は、以前と変わらぬ美しい山容を見せていた。
 
 そのときにはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)や、専門家による放射性物質の測定データが公開されていた。事故を起こした原子力発電所の立地自治体から離れた場所でも、濃度の差はあれ、フォールアウト(放射性下降物質)は検出されていた。汚染地域は福島県内だけでなく、宮城県や茨城県、栃木県などにも広く分布していた。

 会津地方では、磐梯山のふもとから新潟へ抜ける平野部の一部に、線量の高いところがあった。

 バスの車窓から外の景色を眺めていて、思わず涙がにじんだ。ふるさとの山々や田園にも放射性物質は降り注いだ。目には見えないが、原発事故の前とは確実に違う。悔しさと怒りが入り交じったような感情だった。東京に暮らす私がそう思うのだから、それぞれの土地に暮らす人たちの胸中はいかばかりか、と想像した。
 
「東日本大震災」とひとくくりで語られることが多いが、実際には、地震の揺れ、津波、原発事故はそれぞれ異なる災害であり、人々の生活への影響の仕方も異なる。例えば、避難とその後の生活再建をとっても、津波の被災者と原発事故の被災者では事情が違う。もっと言えば、一つひとつの家族、一人ひとりによっても決して同じではない。

 本来メディアは、その一つひとつの事実と丁寧に向き合うべきだ。しかし、際限なくストーリーを伝えることはできない。だったらせめて、限界があることを認識して、葛藤を抱えながら伝えていくしかない。そうでないと、問題を一つにくくって、さもわかったかのような顔をしてしまう。
 
 震災から6年後の2017年3月、「あさイチ」で震災に関する特集を放送した。タイトルは「データでみる東日本大震災から6年」。六年たって、私たちの暮らしの何が変わり何が変わらないのかをデータで考察するという趣旨の企画だ。

 さまざまなデータが紹介されたが、その中に、結婚と離婚に関するものがあった。震災がきっかけで「絆」が意識されるようになり、いわゆる「震災婚」が増え、離婚が減少している、というデータが紹介されたのだ。

 これに対して私は強い違和感を覚えた。 

 東京電力福島第一原子力発電所の事故で避難を余儀なくされた人たちの中には、家族内で意見が分かれる例がたくさんあったことは言うまでもない。特に幼い子どもを抱える若い夫婦では、子どもへの放射線の影響を心配する母親と、生活のために仕事を優先する父親とが対立し、離婚に追い込まれるケースも少なくなかった。

 避難をしたあと、なぜ自分はふるさとを離れてしまったのかと、負い目を感じている人にもたくさん出会ってきた。避難生活が長くなり、避難先で抜き差しならない事情ができてしまえば、帰りたくても帰れない。

 そのような現実を知っていたから、「今日の企画には違和感がある」と、放送の最後にちゃぶ台をひっくり返すようなことを言ってしまったのだ。自分も番組を制作する側の当事者でありながらそれをするのは、フェアではなかったかもしれない。だけど、どうしても黙っていることはできなかった。

 これは「空気を読む・読まない」という問題ではない。多様な価値観や意見をどう担保していくかということだ。

(構成:長瀬千雅/写真提供:柳澤秀夫)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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