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草彅剛さんと番組の企画で二人暮らしした韓国で流した涙の意味【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

 この先どんな取材活動をしていきたいかを考えるときに、必ず思い出すことがある。「あさイチ」の「アッキーがゆく」という特集でのことだ。アッキーこと篠山輝信さんが、日本各地を旅して、その土地のいまをリポートする。2017年5月、アッキーが自身のルーツでもある沖縄を三度目に訪問し沖縄本島を旅するとき、「アッキーがゆく もっと知りたい!沖縄 with ヤナギー」と題して私もついていくことになった。

 35年前、沖縄放送局の記者だったころによく通った、米軍嘉手納基地にも足を運んだ。基地が一望できるビルの屋上へ上ってみると、いまも変わらず軍用機が離着陸訓練を繰り返していた。

 この嘉手納基地から国道五八号を南下すると宜野湾市に入る。宜野湾市は人口9万8000人の街だ。その街のど真ん中、面積にして4分の1をアメリカ海兵隊の普天間飛行場が占めている。世界一危険な基地と言われ、米軍のオスプレイも間近に見える。普天間周辺を取材していたときに、地元の人にこう言われた。

「本土からやって来るマスコミは、ちょっと来て、話を聞き、写真を撮って、帰り、記事にしておしまい。でも、それで本当に沖縄の現実が伝わっているのか。あんたら、一週間ここに住んでみろ。それが無理なら一晩でもいいから泊まっていけ。夜中にどんな音がするのか、わかるから」

 このときに言われた「住んでみろ」。この言葉が、いまも耳にこびりついている。

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 本来、私が目指したい取材は、一つの土地に腰を落ち着けて、そこで生活している人たちと同じ目線で時間を共有することだ。そうしないと見えてこない現実がある。フリーランスのジャーナリストがよくやる手法だ。カメラやビデオカメラを持って、ある地域にぽーんと飛び込んでいく。彼らは多くの場合、現実を一つの言葉でくくろうとはしない。できるだけ一人ひとりの個人に焦点を当て、複雑な現実をそのまますくいとろうとする。

 組織に身を置いていると、なかなかそうはいかない。大きな事件や事故が起こるとそっちに力を割かざるをえない。だからこそ、いずれ組織を離れたら、一つのことにこだわって、虫の目で世の中を見てみたい。それこそがずっと私が考えてきたことだ。

 初めて韓国を訪れたのは、「ニュースウオッチ9」が始まった年だった。

 2006年5月、拉致被害者の横田めぐみさんの父、滋さんをはじめとする家族会のメンバーが韓国・ソウルを訪問し、韓国人拉致被害者の家族と交流を持つことになった。滋さんが、めぐみさんの夫とされる金英男さんの母、崔桂月さんと手を握り合った場面は大きく報道されたので、覚えている人もいるかもしれない。このときの家族会の訪韓を、キャスターとして現地からリポートした。

 同年9月、第一次安倍内閣が発足すると、安倍晋三総理は最初の外遊先に北京を選び、翌日にはソウルに向かった。安倍総理がソウルに到着するのを狙ったかのように、北朝鮮が核実験を行った。日韓首脳会議の目的は、歴史認識をめぐってぎくしゃくしていた両国の関係を改善することだった。このときが私にとって2回目の韓国取材となった。

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 韓国での取材を重ねるうちに、自分がいかに38度線(朝鮮戦争休戦協定に基づく軍事境界線)を挟んだ状況について無知かを思い知らされた。あれほど戦争にこだわっていたのに、隣の国でいまだにひっそりと続く戦争を知ろうともしない自分が恥ずかしく思えた。

 どうしてこれまで、いちばん近くにある国に目を向けてこなかったんだろう。東アジアは門外漢とはいえ、門外漢なりにできることはあったはずだ。胸に手を当ててよく考えてみると、心のどこかで、日本は先進国だという意識が強く働き、韓国を見下すような気持ちがあったのではないか、と思えてくる。また、韓国や中国とのあいだに必ず出てくる厄介な歴史認識の問題から逃げたかったのかもしれない。会津人としてあれほど敗者の側、抑圧された側の思いを大切にしてきたはずなのに。

 こうした自責の念も手伝って日韓のジャーナリスト交流の機会を捉えたり、「あさイチ」の韓国特集の取材で韓国を訪れたりした。

 そして2017年、昔から付き合いのあるディレクターから、私が過去に取材してきた場所をもう一度たどるような特集番組ができないかと打診されたとき、いろいろ考えた末に、「詳しいわけではないが朝鮮半島の話ができないか」と答えた。やはり隣の国のことを知らないからこそもっと知りたい。

 問題はどんな番組にするか、だった。少し前、NHKで「チョイ住み」という番組が始まっていた。二人の人物が外国の街でアパートを借りて共同生活をする。「住む」という視点でその街を見ると、旅とは違うものが見えてくる、というコンセプトの番組だった。

 あんな感じで取材ができないかなと思っていたところへ、ディレクターからも、「とりあえず住んでみるっていうのはどうですか?」と言われた。あらかじめ「これとこれを取材する」「この人とこの人に話を聞く」といったことを決めずに、そこに住んでいる人と同じ目線で暮らしてみたら、何が見えてくるか。それはとてもおもしろそうだ。

 草彅剛さんとソウルのアパートに住んでロケをしたドキュメンタリー番組「ニュースな街に住んでみた!」の企画は、そんなふうにして立ち上がったものだ。

清渓川

 ソウルに着くと、スタッフと一緒にまず不動産屋さんを訪ね、ソウル市内の龍山にあるアパートを借りた。スタッフは近くのホテルに泊まり、一つ屋根の下で暮らすのは本当に二人だけ。昼間は別々のときもあったが、夜は互いに見聞きしたことや感じたことを話し合うことができた。草彅さんは気取りがなくて、自分の思いをまっすぐにぶつけてくれる好青年だった。

 アパートの近くに、失郷民(シリャンミン)の人たちの集会所があった。失郷民とは、朝鮮戦争のときに北朝鮮から韓国へ逃れてきて、故郷へ帰れなくなった人たちのことだ。引っ越しの挨拶のつもりで集会所を訪ねると、いきなり数人のハルモニ(おばあさん)から語気の強い言葉を投げつけられた。その意味はわからなかったが、話し方の激しさと表情から、歓迎されていないことは明らかだった。

 少しずつ話を聞いていくと、日本が植民地支配をしていた時代に日本人にいじめられた。だからどうしても日本人を好きになれないと言う。別れ際に、一人のハルモニが言葉をかけてくれた。「日本人が嫌いなわけじゃない。ただ心が痛いだけなの」

 さらに、ソウル滞在中、アパートの近くの教会で、90歳と86歳のハルモニに出会った。2人は北朝鮮の平壌の出身で、やはり朝鮮戦争のときに家族が離ればなれになってしまったということだった。故郷で撮影した少女時代の写真が家にあるというので、ぜひ見せてほしいと頼み込み、再会を約束して別れた。

 ところが数日後、教会の牧師さんを通じて、もう会いたくないと連絡があった。無理強いをすることはできない。だけど、純粋に話を聞きたいのだという気持ちだけは伝えてほしいと、私は牧師さんに重ねて頼んだ。

 そのやりとりを黙って聞いていた草彅さんがぽつりと言った。

「嫌がる相手に話を聞くことにどれほどの意味があるのだろうか。僕にはよくわからない」
 
 そんな趣旨の言葉だったと記憶している。草彅さんは素直な思いを口にしただけかもしれない。しかし私には、「取材とは何なのか」という根本的なことを考えさせられる重い言葉として心に響いた。

 結局、帰国の前日、二人のハルモニとまた会うことができて、昔の写真を見せてもらった。色あせた写真の中の少女たちは、屈託なく微笑んでいる。ハルモニは当時の思い出を、記憶の糸をたどるようにして話し始めた。

 思い出すのもつらいような話を、どうして聞かせてくれたのだろう。取材させてほしいと言ったのはこちらなのだから、ずいぶんと勝手な疑問ではあるけれど、知りたかった。

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 たった1週間足らずのあいだにいろんなことがありすぎて、自分の心の中を整理しきれずにいた。

 ある日の夕方、ソウルに来てまもなくスリッパや靴を買って知り合った街の靴屋のおじさんにまた会いたくなって、アパートで作った煮物とマッコリを持って店を訪ねた。おじさんは喜んでくれて、店先で酒盛りが始まった。向かいの豚足屋のお兄さんもやって来た。私は、韓国に来てからなかなか思うように取材ができないことを、誰か土地の人に愚痴りたかった。

 マッコリを酌み交わすうちに、おじさんも自分のことを少しずつ話してくれた。祖国が分断されたこと、南北に分かれて戦争したことに、少なからず人生を翻弄されていた。おじさんが淡々と語るのを聞いていたら、それまでに私が目の当たりにしてきた戦場がよみがえってきた。

「何があっても、戦争だけはもう二度と見たくない」

 感情が急にこみ上げ、涙があふれる。酒のせいに違いない。泣いている私を見て、おじさんたちは肩を叩いて慰めてくれた。「大丈夫だ、戦争は起きないよ」。カメラの前で泣くなんて、やっぱり記者失格かもしれない。
 
 私は、あの龍山のアパートをもう一度訪ねたい。そしてまた、そこに暮らす一人として取材がしてみたい。あの韓国での日々を一度だけの経験として私の取材ノートにピリオドを打ちたくない。

(構成/長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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