見出し画像

朝ドラ「おちょやん」モデル・浪花千栄子 唯一の自伝『水のように』特別公開!給金を勝手にくすねる父から逃げ出しカフェの女給に…苦労したからこそ見える世界とは

 杉咲花さん主演のNHK連続テレビ小説「おちょやん」。モデルとなった女優・浪花千栄子さんが残した唯一の自伝『水のように』には、貧しかった幼少期から、奉公先での苦労、女優として成功をおさめるまでが、心のままに綴られています。「おちょやん」応援企画として特別に、自伝『水のように』を期間限定で全文公開! ドラマと合わせてお楽しみ下さい。

【第1章】私の生きてきた道――そして、私の生き方③

 死ぬ場所はどこにしよう。

 そして、死ぬ手段はどうしよう。とつおいつ考えぬいた末、死ぬ場所は、文字を勉強する場でもあり、自分を取りもどす場でもあったお便所の中ときめ、死の手段は、便所のはりに自分の帯をつりさげ、首をくくることにいたしました。

 悲そうな覚悟で便所へはいり、ふと前方の窓の敷居に目をやりますと、ありが一匹はっていました。よし、あのありが端まではって行ったら、足の台をけろうと思ってしたくをしていると、それは果たせませんでしたが、死のうという心境が、案外じめじめしたものでないことは、私のとうとい体験となりました。私は他動的に、そのときの自殺には失敗いたしました。

 と申しますのは私が、かわいがっていたその家のねこが、ありがノロノロまん中へんをはっているとき、どうしてかぎつけたのか、便所へはいってきてニャアニャアないて私のすそをくわえてひっぱるではありませんか。なきながら、いつになく人なつっこく私にまつわりつくねこを、「私はいま、お前をかまってやるどころじゃないのだよ」と、なかばはしかりつけて、何度も追い払おうといたしますが、いっかな私のかたわらを離れないばかりか、あべこべに、じゃれついてくるのです。

 さあもう、そうなりましては、死に対決するきびしさは、さあっと霧のようにどこかへ流れてしまいました。「お前のために、気イが抜けてしもうたやないの。死ぬのんは、またこんどにしよ」と、事実ありていに申せば、一度におこりが落ちたようにケロリとした気持ちになって、死というものを真剣に考えた半時間前のことが、他人事のように、自分から遠いものに感じられるのでございました。

 余談ですが、あのとき、私の生命を救ってくれたのはねこ、それからと申すもの、今日に至るまで、私は、一生かかっての恩返えしをするつもりで、ねこは特にたいせつにかわいがって育てております。

 とにかく、その主人と申しますのは、悪い人というのではなく、まして、いやな人というのでもけっしてありませんが、奉公人というものは、自分たちより下層の者だという、むずかしく言うと階級意識が強く、私などは、犬ころでも扱うような調子で接しておられたものとみえます。どこの家も、その点は似たり寄ったりだったようですが、特にこの家は、おえはんといい、その人のむすこである主人といい、下の者には「厳格なしつけ」という伝家の宝刀をふるって、すべてに思いやりのない人たちでありました。その証拠に、私の八年間勤めたということは前代未聞のことだそうで、下働きで二年と満足に続いた人は皆無とか、私の知っているだけでも、早い人は、ほんの一月居るか居ないで、みなその仕事のつらさに音をあげて、さっさと暇をとって去って行くのです。

 その意味で、私のしんぼう強さがほめられることなのか、または、ずぶといからなのか、それともほんとうは、漫才かなんぞのように、けんかしながらも実は主人とは相性がよかったとでもいうことなのか、私にもよくわかりませんが、八年間、私をどうやら支えていたものが二つだけあることは、今日もなお確信しております。

 尋常六年出ただけくらいの読み書きが、早うできるようにならなあかん、ということ。大好きになった名優花形たちのお芝居が、毎日ただで見られる、ということ。

 この二つに比べたら、どなられることも突き飛ばされることも、「かんにんしとくれやす」を、一日に二、三度言うことも、たいして意に介することではないようでした。そして、一人前に、とにかく読み書きができな、何言うたかてあかん、という気持ちが大きく私を支配していました。だからこそ、まる八年、これも他動的に、その仕出し料理屋をやめることになる十七歳の日まで、年齢がふえるにしたがって、自分で自分をむち打ったり、激励したりしながら、私という孤独な女の子は、何かを夢見ながら、何かを、ぼんやり期待しながら、働いて、働いて、成長してきたのでございます。

 夢。

 私は、へたな字で、ただいまでも、揮毫を求められたりいたしますと、この、夢という字を、一字書かせていただいております。

 そのころの新聞や雑誌には、たいてい漢字にルビがふってありまして、まず最初に、いろは四十八文字はハッキリ頭へはいりましたが、さてこの漢字はさっぱり足がかりがつかめません。そこでお使いの行きかえりに、看板や標札や、役者衆の名、劇場や新聞の名を覚えて、その字を自分の頭へ入れてゆくことから始めました。市川右團次、中村鴈治郎と覚えますと、市川のいちは大阪市のしであること、右團次のうは右手のみぎであること、ぢは明治のぢと同じであることなどなどを発見いたします。

 浪花座のなにはおぼえていても、白浪五人男はなみということをまだ知らず、「来月の中座はしらなに五人男やな」と言って大笑いされたこともありますが、この難行苦行は、大いにたのしい張り合いのあることでございました。

 ルビのないむずかしい漢字に出会うと、その漢字をはさんでいるすぐあと先のかな文字から推察して読んでみると、だいたいわかるのですが、それが正しいか誤っているかをハッキリ確かめておかなければなりません。

 いずれは、当時大流行の新聞連載小説の一部だったのでしょう。前にもちょっと申しあげたように三角袋になっているので、読めるところから読みはじめてゆくと、驚きに打ちひしがれた雪子は、目にいっぱいの涙をためて、という一節の、この驚きと涙という字が初めて出てきた文字でルビなしときています。しかし、涙のほうはすぐなみだであると理解されましたが、最初の驚きがまるで雲をつかむようです。そこで、苦心さんたんの末、そのむずかしい字をなぞるように書き取って、仕事の暇を見はからい、割合に、私にいつも好意的な、板前の吉さんという中年の人に、その字を示して「おっちゃん、これ、なんという字か、教えておくれやす」と頼みますと、吉さんは目をパチパチしてそれを見ていましたが、「けいま、と読むのと違うかいな」と教えてくれました。

 けいまでは、そのすぐ下に「きに打ちひしがれた」、がまるで意味をなしません。これは私の字の敬と馬との間が離れすぎていたために、吉さんの判じ読みとなった例で、こんな悲しい笑い話は、私の、読み書きの勉強には、数えたてたらキリのないほどございます。

 しかし、そうして長い年月をかけて、どうやら覚えた何百字かの漢字も、昨今では、当用漢字とか漢字制限とかで、事実上使えなくなったようでございますが、むずかしい漢字や、まちがった漢字を使うより、はじめから、おどろきと、かなで書いたほうが、どれほどとおりがいいかわかりません。ことばの持つ、深い意味とか、ことばの陰影とかが、よくわかりさえすれば、私はいいのではないかと存じております。後年になって、私は、そういうものを理解するための能力を養うほうが、単に文字を習うよりも、ずっとたいせつである、ということをはじめて知ったのでございました。

 死のうとしたときはねこという、他からの力で死にそこなってしまい、仕出し料理屋は、あれから八年ぶりで、ひょっこり、私の前へ現われた父によって、いやもおうもなしに暇をとること(退職すること)になりました。

 私を、ここへつれてきた祖母とおばは、どんなことがあっても、父には、私のつとめ口を知らすまいとしていたらしいのですが、父はなんらかの手段を講じて、この家に私が女中奉公していることをかぎつけたものと思われます。

 父の出現は、金策のためでした。いきなり、それとは言いだしかねて、

「心配しとったんやが、お前も、見違えるようにりっぱな娘になった、おとうちゃんはこんなうれしいことはない――」

 というようなことをうわの空で言いながら、お前も奉公に出てからもう八年にもなるのだから、少しは貯金もできてるだろう。商売の元手に、それを用立ててもらおうと思って、実はわざわざたずねてきたのだ、と本音を吐きましたが、私に、さかさに振っても一銭の金もないことがわかると、こんどは主人に面会し、強談判を持ちかけるのでした。

「食わして、着せてくれるだけでいい、この子がどうにか一人前の仲居にでもなれるようにしてやってくれ」という約束で引き受けたんだし、年季奉公にしたって、まだ年季が来ていないから、金なんかびた一文出せない、と主人側は言うらしいのですが、父は、「年端もいかぬ子供を、八年間もさんざんこき使っておきながら、びた一文出せぬとは何たるひどいことだ。とにかく、きょうかぎり、親のこのおれが暇をもらうから、得心のゆくようにしてくれ」と、まるで、まともには聞けないような、双方、自分かっての応酬で、私はかたわらで、他人の事のように冷静に、おとなのみにくさを観察していました。

 しかし、結果は、主人側から一金十五円なりの(大学出の初任給が、五、六十円というころのことです)退職金のようなものを引きだすことに成功して、父は得意そうに笑いながら、わが子の私におべんちゃらを言うのでした。

「なあに、富田林へいんだら、なんぼでもええ奉公口がある。お前も、もう女一人前や、そのうえ、南の道頓堀でみがき上げてきてるんや、給金かてようけくれるとこあ、なんぼでもあるわい!」

 父の言うとおり、なるほど奉公口はすぐありました。富田林では、名の知れた造り酒屋でした。しかし、父の言うように、ようけくれるかくれないかが、当の私にわかりもしないうちに、前借りという手で、父の好餌になっておりました。

 古いしきたりが重んじられているその家では、この父の毎月の前借りにすっかりあいそうをつかし、三か月目で暇が出ました。

 次は、大きな材木屋さんでした。父は、たいそうきげんよく私を送ってくれ「この家の御寮人さんは、よくもののわかる、やさしい人だから、お前も、精出して勤めなければいけない」という意味のことを、くどくど言い残して去って行きました。

 私はそこでも、陰ひなたなく、自分の運命に従順に、働きつづけました。下働きという台所の女中でしたが、奥さんにはことのほかかわいがられ、ぼっちゃんや嬢ちゃんにも、たいそう慕われました。

 しかし、月末になってもいっこうにお給金が手渡されません。ひょっとすると、奥さんが、貯金でもしてくださっていて、私がお暇をいただくときに、お嫁入りのしたくになさいといって、まとまった金額をくださるのかも知れない、そういう例はままあることなので、お家柄なりお人柄なり、自分でそうきめて半年ほど過ぎました。

 ふと、ある日、父のことが私の頭の中に、予感を呼び起こすように、ひらめきました。

 私は、ためらいつつ奥様の前に手をついて、たずねました。

「あら、あんた、知ってるこっちゃと思うていたのんに。あんたの年季は二十歳までの二年間ということで、一か月五円の割で百二十円、あんたがはじめてここへお目みえに来た日に、あんたのお父さんに、ちゃんと渡してあげたんやがな――」

 奥さんの答えは、私の思いどおりでした。なんという親でしょう、私は、むしろ奥さんに恥ずかしくなって、顔も上げえず、ただ深く頭をたれるのみでした。

 私は、それから一年半というもの、ひたすらにいっしょうけんめいに働きつづけました。この二年間は、しかし、私にとって、まことにとうとい二年間でございました。人の世にある美しいもの、それも形のない美しいもの、人の心に宿る愛情とか善意とか、あるいは教養とかいうものの美しさを、この奥さんや子供さんたちから、私は身をもって教えられました。

 私も、もう二十歳になろうとしていました。そして、この奥さんのひざもとで、女として知っておかねばならぬいろいろのことを、実にたくさん学びました。

 雑草のように、だれにもかえり見もされずに無知でのほうずに、ただがんけんに生きてきただけの私という娘は、人間を形づくる最終の段階で、この奥さんによって、かろうじて、その段々を踏みすべらさないですんだのでございます。

 茶道に「一期一会」と申すことばがございますが、この材木屋の奥さんとの御縁こそ、私のこれからの生涯をかけても、お返しできるかどうかはなはだおぼつかない大恩で、ああ、あのとき、ああ言うてくださらなかったら、いま私はどうなっていただろう、ということが数かぎりなくあって、ただいまも感謝の心を失いません。

 私は、もし万一父が出現したら、こんどこそは許さない覚悟ができておりました。なんとしても、昔の勤勉な実直な父にかえってもらわねばならぬ、かと言って、まだ子供だと思っているに違いない私ふぜいが、何かを言っても聞き入れてはくれまい、どうしたら一番いいか、日夜そのことを考えていると、ある日、今度は奥さんのほうから「少々、お前に話したいことがある」と奥へ呼び出されました。

「実は、あんたが、ほんまにようやってくれはるさかい、うち中、みんなあんたを手放しとうない言うてるんや、そしてうちから、いい御縁を見つけてあげてお嫁にやってあげたいんやが……」。年季が明けるのは今月の末、きっとねらっていて、あんたのおとうさんがくるだろう。お金というものは、人を生かしもし、殺しもする、私からはなんとも言えないけれど、あんたももうどこへ出てもりっぱな一人前の娘さんや、ここに、賞与として、恥ずかしいけれど、一か月分だけ包んであるが、これをあんたに上げる。ほんの私の志や、すくないけど気持ちだけ取っといてちょうだい、つらかったやろうが、年季明けももうすぐや、よう考えて、自分というものを、大事に大事に扱わんとあきませんよ、おおかたそのような意味のことを、静かに、やさしくおっしゃるのです。あとで考えてわかったことですが、これは、安宅の関の富樫左衛門の心持ちで、私に自由の天地を求めて、親の桎梏から飛び立て、という言外の意味があったのです。そのときには、奥さんの深い心のなかは伺い知る由もなく、私は、その金一封と奥さんのあたたかいおとりなしに、ただ涙がこぼれるばかりでしたが、その夜は父が、卑屈に自分の娘におべんちゃらを言って、金の無心に来た夢で、ハッと目がさめました。

 もう私は居ても立ってもいられない危ぐ感に襲われ、考えは堂々めぐりするばかりですが、結局は御恩になったこの家に御迷惑がかかったり、父と争ったりすることはもう御免だ、という気になりました。そして、昼間の、奥さんのことばをかみしめて、はじめて、真意がわかったのです。

「私は、もうおとうさんの言いなりになってはいられない。いつまでもこの家には居たいけれど、年季が明けたとなったら、年ごろも年ごろ、こんどはどんなところへ売り飛ばされるやら、考えてもおそろしい。第一、父の言いなりになっていては私は、取柄のない、人形のようなばか女になってしまうだろう。奥さんには、ちゃんと御あいさつできぬのが心残りだけれど、私のことは奥さんが一番理解していてくださる。よし、今夜のうちにこの家を出て、父の目の届かぬ新しい自分の道を自分で見つけよう――」

 盆と暮れに仕立てて着せてもらった、一ちょうらの着物が二、三枚、ゆかたが二枚、それに手回りのものをふろしき包みにし、奥様には、鉛筆で「御恩にそむくようだが、だまってお暇をいただかしてもらう、許してほしい」という意味のことを、たどたどしくありあわせの紙に書きのこして、たたんだふとんの上にのせました。

 この、奥さんへの書き置き手紙が、私が、ほぞの緒切って、はじめて、読んでもらうために人にあてて書いたものの、第一号というわけでございます。どういう字を書きましたものやら、ふろしき包みを斜めに背負い、しりはし折って、裏口から夜明けの街道筋へ、足音を忍ばせて出たそのときの私の姿とを思い浮かべますと、古い回りどうろうでも見るような、涙ぐましいなつかしい思いがいたします。

 さて、ようやく明けそめたばかりの街道を、足は自然に駅へ向かっていましたが、どこへ行く、どうする、という目的もまだきまってはいないのですから、考え考え歩く足どりはともすると重くなりがちですが、とにかく一番電車で、村の知った人になるべく見つからぬように注意して、大阪まで出ようと心にきめました。

 幸い、だれにも見られず、電車に乗ることができましたが、電車にゆられているうちに、ふと思い出すことがありました。それは大阪の仕出し料理屋で、私はいつもるす組でしたが、年に一度の店員慰安会に、きまって京都が選ばれていたことです。

「京都いうとこは、ほんまに、何べん行ってもええとこやなあ」

「四条、円山、新京極、御室、嵯峨、嵐山、ほんまに、ちーっとでも、見せてあげたいわ。せやけど、連れてってもらへん子には、見せてあげとうてもあげられんわなあ」

 聞こえよがしに、るす番ときまっている私に、底意地悪い同輩連中の声がひびいたことも何度かありました。

 そうだ、京都へ行こう。

 そこには、自分を待っている何かがあるかもしれない、ある意味ではわくわくするような未知の世界への期待もあって、行く先は京都と、きめました。

 どんな重い石や土に、上から押さえつけられていても、雑草は、自分だけの力で、それをよけたり、はねかえしたりして、時がくればちゃんと自分の花を開く、――そうや、私も雑草やった、だれも見てくれへんかてかめへん、私は、私ひとりの、自分だけの力で、私の花を開かすのや、それでいいんや――

 知った人ひとりいない、どんなところなのか行ったこともない、京都という、今まで全く自分とはなんのかかわりあいもない都会を、わが行く先と定めたら、私は急に、自分がもう完全におとななのだ、ということを自覚いたしました。

 冬のことでした。

 大阪の阿部野橋で電車を降りて、べっちんのむらさき色のたびと、赤い鼻緒のげたを買ったことをおぼえています。

 はじめて降り立った京都駅(当時は、たしか七条と称していたようです)私は、ためらいなく、駅前の大きな間口いっぱいの、のれんのかかった「口入れ屋」(ただいまなら私設の職業あっせん所とでもいうところでしょう。そういう職業が個人に許されていて、ずいぶん、悪徳なものもあったようです)の表戸をあけました。

「御免やす、どこぞ、わてのようなもん、使こてくれるとこ、お世話しておくれやす」

 私の声が、娘らしくもない、あたりはばからぬ大声だったのでしょうか、それともあまりに勇ましく、正々堂々としていたとでもいうのでしょうか、客も店員も、その店中の、人という人全部が、一せいに私のほうをふりかえったのには、こっちがすっかりあがってしまいました。

 お屋敷奉公を強く希望したにもかかわらず、私がその口入れ屋から連れて行かれた先は、京阪電車沿線の深草、「師団前」という停留場に近い、カフェー・オリエンタルという家でした。当時は、第一次欧州大戦からはすでに数年を経ていましたが、軍国主義ますますはなやかなりしころで、京都伏見の師団の兵隊さんたちは、その界わいで大モテでした。カーキ色とサーベルと馬ふんのにおいに取りかこまれて、カフェー・オリエンタルは、そのあたり切っての一流カフェーで、女給さんも約七、八人、えりすぐった美人がそろっているという定評のある家でした。

 表は、モルタルの西洋館で、ハート形の窓にはみどりや赤の色ガラスがはめ込まれ、金文字入りのガラスとびらを押して中へはいれば、そこは私にとって、はじめて見る別世界、天井には満開のさくらのつり枝、水色とうすいピンクの室内照明に、たばこのけむりが霧のようにただよい(兵隊さんたちが日曜日の御常連で、いつもは将校や、軍隊の恩恵を受けて商売をしている附近のだんな衆や若い店員さんというところが、そこのお客でした)、客と女給さんたちの話し声、笑い声、歌う声が、蓄音機の、さあーばあくうに日がおちてえ、よーるうとなあーるこおおろお、と歌う男の歌手のバリトンにまじって、そのにぎやかで、陽気なこと、面くらった私は頭がぼおーとして、その場へ一瞬立ちすくんでしまいました。それにしても、オリエンタルというのは、なんという意味であろう。男も女も、いっしょに手をたたいたり、肩を組んだり、歌ったり、そしてお酒をのんで、まことにゆかいそうで、私の今までかつて見たこともない風景だけれど、このオリエンタルという英語は、ひょっとすると、みだらなところ、という意味を持っているのではないだろうか。

 二、三日して、同輩から、オリエンタルの日本語を聞いて一まず安心いたしましたが、私にとってここの生活は、ほんとうに、清水の舞台から飛び下りたようなもので、何から何までが思いもよらないことばかりで、二、三日のあいだ、どうてんのしつづけ、どうきははげしく打ちどおしでした。

 住み込みの女給さんの中に、ユリちゃんと呼ばれている、私より二つ上のひとがいて、このユリちゃんがたいへん親切にしてくれるので、どこで何をして働こうと、自分の心さえしっかり持っていればいいのではないか、と思うようになりました。それに働いてみもしないで、いいも悪いもわからぬではないか、どうせ来てしまったのだから、一つ女給さんになって働いてみよう、と決心がついたのは、オリエンタルの意味が「東洋的」とわかった日からでした。

 私の、生活急変の第一日、ユリちゃんにしたがって昼間から近所の髪結いさんへ行って、それから、おふろへ行く、ということにまずびっくり、おふろから上がると、ユリちゃんが、小まめにかんでふくめるように化粧のしかたを教えて、いきなり、私の顔におしろいを塗りつけたのには二度びっくり、

「あんたの顔、モダンな顔だちやさかい、あんまり白うせんと、はだ色がちょうどええわ、それにほお紅も、口紅も、あんまり赤うせんほうがよろし」

 と、ひとりぎめで、どんどん私をリードしてくれるのでした。着物と帯はお店の貸与品で、そのころ流行のきんしゃの花模様の着物に、金地に赤の市松こうしの帯、その上にすそがスカートのようにひらいている、こいきな白のエプロン、桃割れに結った髪には、歩くたびにヒラヒラ光るちょうちょうの花かんざし、足もとは白たびにフェルトのぞうり、万事、ユリちゃん任せで、でき上がって恐る恐る姿見を見て、これが私の姿かとまたびっくり、しかし、道頓堀時代から、女給さんのエプロン姿を、ふとふり返えって、うらやましそうに見送った思い出もあり、よもや自分がそうなろうとは夢にも考えなかったことだけれど、こうしてみると、まんざら悪い気持ちもいたしません。

 それが接客のためのユニホームではあっても、今まで着たこともないはでな模様の絹の着物の長いたもと、胸高にきゅっとしめたおたいこの帯、私にとって、それは夢の実現に違いありません。

 娘心にたもとをひるがえしてみたい衝動にかられ、姿見の前で、ひとり、いろんなポーズをしてみますが、つくづく見ると、これは、どう考えても自分の姿ではないように思え、恥ずかしくなり、お店へ出ない先から足がぶるぶる震えたりするのでした。

 働く、ということは、こんなことではない、とも思えるのでした。しかし、知らぬ土地では、すぐにどうするということもできません。当分、命じられたとおりのことをして、主人や同輩に気に入られよう、そして、様子を見ながら、いくらかでも京都がわかり、少しお金がたまるまでしんぼうしよう。

 それにしても、カフェー・オリエンタルというのは、英語の家号だとは知らなかった。そうや、英語の単語くらい、少し知ってんとこれからはあかんなあ、と思いつき、それこそ、レストラン、フルーツ・パーラー、デパートメントストア等、ちょっと新聞をひらけば出ているかたかなの文字を、意識的にひろって覚えていくことによって気をまぎらし、そこの生活に落ちつくように努力しました。

 ゆうずうのきかない、あいきょうのない、蓄音機の針ばかり取り替えさせられている女給でしたが、そこに二か月ほどいるうちに、私の身の上には、再び急変が起こったのです。こんどは急変というよりも、自ら求めた跳躍だったかもしれません。自分から進んで映画の女優になることになったからであります。

 私という娘。

 生まれてからこのかた、二十歳になった年まで、人に祝福を受けるようなことはみじんもなく、「あんた十九やて、ええ! ほんまかいな、二十七、八かと思うたがなあ、へえ! ほんまの十九歳」と、はじめて飛び込んだ京都駅前の口入れ屋の主人に、多少オーバーと思えるほど、びっくりされたように、この師団前のカフェーの何十日かが私の運命に無かったら、そのまま貧しく名もなく、台所の隅で年を重ねていったかもわかりません。

 きたないどぶ川の泥水のような運命にただよいながら、反抗もせず、そんなものだとあきらめていたからですが、そのためにこそ、非行少女にもならずに終わったとも言えましょう。

 師団前のカフェー・オリエンタルは、わかればわかるほど、いやでたまらない職場ではありましたが、私は、そこで私の中にひそんでいた、自分もまるで知らなかったものをいろいろ発見いたしました。

 どうしてそこがいやでたまらないのかと自問自答すると、好きでもない人にお世辞を言ってお酒をついだり、心にもないことを言って人をだましたり、びんの底にまだコップ一杯分くらい残っているビールを、からのように何気なく引いてきて、その残りを集めて一本にして、酔っぱらったお客に出したり、金のある人とみると、徹底的に食いさがるというようなことを極度にきらう潔癖性が自分にあるということの発見。

 男にだらしがなく、買い食い好きで、暇さえあればゴロゴロ寝ころがっている光ちゃんという人と、世話好きで勤勉できれい好きのユリちゃんと、ふたりの着物姿を見比べると、ユリちゃんの着こなしが格段の差で、着物というものはその人の精神が着るものだという発見。

 教育はなくても、物事に真心を持ち、腰を低くし、知らないことはなんでも人に聞いて教わる、という心さえ失わねば、それがりっぱな人間になる道だという発見。

 自分の個性をよく知り、よい面の個性を常にみがく、個性がいかにたいせつかということの発見。

 それと、私だってこうしてよそおい身づくろいをすれば、少しはチャーミングである、ということの発見。

 たわいもない、と一笑にふされるかもしれませんが、私にとって、カフェー・オリエンタルは、ひとりの、一人前の人間として取り扱われた社会ですから、そこで発見されたものは、私という人間にとっては重大な意味があり、生きるための収獲でないわけはありません。

 私は、ここまでは、人にあっちへ行け、と言われればそのようにし、人にこっちへ来いと言われれば、言われるとおりに動いて、まるで自己というものを持っていないようでありました。しかし、これはいたしかたのないことでもあり、またそうすることが実は私の自己形成の道でもあったのでしょう。

 南北朝からの、武士の血が流れていると聞いた私の体内に、そのときまで眠っていたものがあるとすれば、それが、このカフェー・オリエンタルで、かすかに目ざめかけたのかもしれません。

 化粧も、教えてくれた人よりも、はるかに早い時間にうまくやれるようになり、着物も自分で着られるようになり、京都の町が碁盤の目のように整っていることもわかりました。

 富田林の、あの材木屋さんを出て、京都へと志したとき、そこには何かが待っているように思えたと申しましたが、待ってはいませんでした。

 これ! と直感して、私のほうから押しかけていきました。一言で言うならば、これまでは、私はすべて他動的に生きてきました。しかし、その日から私は積極的に自動的に生きることにいたしました。不幸な結婚がはじまって、それが終局を迎えるまでは、再び他動的にはなりましたが。ということは、あくまでも水のように、私という人間は、方円の器に、なんの抵抗もなくしたがえるということです。

 流れるとも見えぬ、私という泥水は、たとえあるとき、よどんでくさって、メタンガスが発生しそうなときでも、じっとしていました。

 どうにもがまんのならないような場合でも、自分から新しい方向へ流れ出ようとはしませんでした。

 これが、それまでの私の生き方でしたが、映画女優を志したことは、私の生き方を変化させるでしょうか。積極的に生きるということは、考え方が変化しただけで、根本の生き方には、少しの変化もないのではないか、と思います。

 とにかく、こんどは、自ら求めて、それこそ昨日までは考えてもみなかった新しい方向で、自分の可能性を自ら大いにためしてみることにしたのでございます。

 よく、「向こうを向いていろ、と言えば、三年でも向こうを向いているほどおとなしい」などと世間のたとえに言いますが、人の言いなりに、三年向こうを向いていても、その人の内心はどうなのか、それはだれにもわからないことです。形だけ、上っつらだけ、言われたとおり、向こうを向いていても、ひょっとすると、内心、おそろしい殺意をいだいている人だってあるかもわかりません。

 丸いものにも、四角いものにも、従順であるように見えて、私には、案外、反骨の精神がいつの間にか、どこかに、芽ばえていたのかもしれません。

 なぜなら、そのころから私は、正しいものが泣いたり、不正なものが笑ったりする自分の周囲の世間に、義憤を感じる気持ちが頭をもたげ始めていましたから。

【第1章】② / 記事一覧へ


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!