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胸が締め付けられるようなニュース原稿をなぜ書けたのか?報道の意味と意義【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

■横浜米軍機墜落事故と「雁首集め」

 1977年4月、NHKに入局した。

 最初の赴任地は横浜放送局だった。放送局でも新聞社でも、たいていの新人記者の最初の仕事は警察取材である。横浜市内の17の警察署を一人で担当した。

 1970年代後半、連絡の手段はポケットベル。ポケベルが鳴ると、公衆電話を探して県警の記者クラブにいるキャップか局に連絡を入れる。同時に、小型受信機で警察無線を傍受。事件や事故の現場へ急行する。気の休まる暇はなかったが、そんな毎日にニュースの現場取材の醍醐味を感じていた。

 横浜放送局の場合、取材を終えると、カメラマンは撮影したフィルムを桜木町駅から東急東横線に乗せ、東京・渋谷のNHK放送センターに送る。いっぽう記者は公衆電話へ走り、局に電話をかけて、現場で書いた原稿を読み上げる。交通死亡事故などの場合、デスクは必ずこう聞いてくる。被害者の雁首はあるのか?

 雁首とは、被害者の顔写真のこと。事件や事故のニュースにはつきものだ。被害者の家族のもとを訪ねてもすんなりと貸してもらえることはほとんどなく、たいていは門前払い。しかし、何度も足を運んでお願いする。

 私は、この雁首集めだけはどうしても苦手だった。

 あるとき、幼い子どもが犠牲になる交通事故があった。

 私は現場に急行し、取材をして、事故現場のポラロイド写真と原稿を送った。デスクに、「雁首は?」と聞かれた。

「ありません」

 とっさにそう答える。すると、重ねて聞かれた。

「家には行ったのか?」
「行って断られました」

 噓だった。子どもを亡くしたばかりの家族に、お子さんの写真を貸してくださいとは言えなかった。事故の経緯と原因、再発防止の手がかりを伝えればニュースとしては十分じゃないか。そう思った。

 雁首集めのうまい記者もいる。ある交通事故のときは、同世代の新聞記者とつるんで取材をしていて、彼と一緒に家族のもとを訪ねた。亡くなった子のおばあさんが在宅で、彼は「こんなにかわいいお子さんが亡くなったと、世の中に伝えたいんです」と言って、アルバムから写真を一枚抜き取って貸してもらうことに成功した。きれいごとだ。私はそんなふうに思えて割り切れなかった。

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写真説明)1977年9月27日、米軍機が横浜市郊外に墜落。住民3人が死亡、6人が負傷した。写真は墜落した機体でできた穴(著者提供)

 1977年9月27日、横浜市内で、飛行機の墜落事故が起きた。

 墜落したのは、横須賀を事実上の母港とする米海軍の空母ミッドウェーの艦載機。

厚木基地を離陸した直後エンジン火災を起こし、横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)の住宅地に墜ちたのだ。乗員二人はパラシュートで脱出して無事だったが、住宅六軒が炎に包まれてしまう。

 私はその日、休みだった。しかも誕生日。遊びに出かける支度をしていたとき、ポケベルが鳴った。局に電話すると、県警本部の記者クラブに行けとデスクからの指示が飛ぶ。現場じゃないのか。不満に思ったが、県警に向かい、入ってくる情報をひたすら原稿にまとめた。

 墜落による火災で九人が負傷して、病院に搬送された。3歳と1歳の兄弟が、全身に大やけどを負い、未明までに相次いで亡くなった。兄弟の母親も全身にやけどを負っていた。

 翌日、墜落現場の取材をデスクに許された。煙がくすぶり、ジェット燃料特有の匂いが鼻をつく。米軍と警察が張った規制線にへばりつき、現場検証の様子を原稿にまとめて送った。携帯ラジオを耳に当てながら、自分の原稿が正午のラジオニュースで放送されるのを待つ。

 ところが、放送されたのは私の原稿ではなかった。

 今日未明、幼い兄弟が相次いで息を引き取りました。3歳の林裕一郎くんは、午前0時40分ごろ、「おみずちょうだい」「パパ、ママ、バイバイ」と言って亡くなりました。1歳の康弘ちゃんは、午前4時すぎ、「ぽっぽっぽ」と、鳩ぽっぽの歌をかすかに口ずさみながら、息を引き取りました─―。

 胸が締め付けられるような原稿だった。書いたのは先輩記者だった。でも先輩は病室にいたわけではない。なぜこの原稿を書けたのか。

■逃げてんじゃねぇのか

 兄弟には、祖母が付き添っていた。兄弟が息を引き取ったあと、小さな棺の前でうなだれる祖母の傍らに、先輩は黙って座っていたのだという。マイクを向けたり、カメラを構えたりはせず、小さいメモ帳とボールペンだけを手に持っていたという。

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写真説明)墜落現場に立つ米兵と警察官、奥に見えるのが墜落に巻き込まれた住宅(著者提供)

 おばあさんが漏らす、言葉にならない嗚咽のような声に、先輩は、うなずきながら、ひたすら耳を傾けた。そして、聞き取れた言葉をひたすらメモする。その中で、幼い兄弟の最期の言葉を聞き出したのだ。

 矢継ぎ早に質問をぶつけることしか知らなかった私は、そんな取材の仕方もあるのか、と目から鱗の落ちる思いだった。悲しみや苦しみの最中にいる人に寄り添って、こぼれる言葉をすくい取る。自然にその人の思いを聞かせてもらえるような場を作る。

 遺族をそっとしておこうと、遠巻きに見ているだけだったら、あの原稿はなかったかもしれない。あの原稿がなかったら、あれほど多くの人が事故の痛ましさに共感し、憤りを表明しただろうか。住宅地に米軍機が落ち、3歳と1歳の子どもが犠牲になるこの理不尽さを、あの原稿は、理屈だけでなく、感情の部分でも訴えたのだ。

 このときふと思ったのは、雁首集めも同じなのかな、ということ。「こんなにかわいいお子さんが亡くなったと、世の中に伝えたいんです」という言葉は、きれいごとかもしれないが噓ではない。私はどうか。勝手な口実で、しんどくて面倒なことから、ただ逃げていただけではないのか。

 事件や事故の取材の本質は、被害者の遺族や関係者に会って、話を聞くことにある。そうでなければ、なぜその人が事件や事故に巻き込まれたのか、なぜ命を落としたり、傷ついたりしなければならなかったのかを、知ることができないから。写真を借りるのはその過程に過ぎない。

 強い拒否反応を示されることもある。だけど、我々は、なぜその写真が必要なのか、報道によって世の中に何を伝えようとしているのかを、真摯に訴えるしかない。

 デスクが執拗に「雁首はあるのか」と言っていたのは、逃げてんじゃねえのか、ということだったのだろう。

 墜落した米軍機の残骸は、すぐに厚木基地に運び去られた。事故原因の調査は日米合同委員会で行われた。事故分科委員会は、原因はエンジン不良で、二人のパイロットに過失はないと結論付けた。1980年に神奈川県警は米軍のパイロットらを書類送検したが、横浜地検は不起訴処分とした。

 兄弟の母親は、壮絶な治療・闘病の末に、4年4カ月後に亡くなった。

(構成:長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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