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後藤健二くんが教えてくれた記者の責任と「フリージャーナリストは番組に出せない」という組織のずるさ【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

 後藤健二くんと最初に会ったのは、湾岸戦争からも時間がたち、カイロ駐在を終えて、東京に帰ってきてからのことで、確か1995年だったと思う。そのとき、彼はまだ30歳手前で、私は40代の前半だった。

 中東には、フリーランスのジャーナリストやカメラマンがたくさん入っていて、私もいろんな人と知り合いになった。

 フリーランスの人は、自分が撮ってきた映像を他のジャーナリストたちに見てもらうために、よく取材報告会を開いていた。あるとき、中東の取材報告会があるというので、出かけていった。会のあと、一人の若者に「柳澤さんですよね?」と声をかけられた。それが後藤くんだった。

 後藤くんは、「僕もこういう仕事をしたいです」と言った。人当たりがよくて、やさしい目をした若者。それが彼の第一印象だった。

「戦場取材ってどういう取材なんですか」と聞かれた。いきなり聞かれても、確信をもって戦場取材を語れるほどの言葉を私は持っていなかった。だから、「取材しているときは怖いも何もなくて、そこから離れて振り返ったときに、危険なところにいたんだなと思う、そんな世界だよ」というようなことを話した記憶がある。

 その後も、似たような会に参加すると後藤くんと顔を合わせることがたびたびあった。あるとき、私が「元気? 何やってるの?」と聞くと、後藤くんから、「僕も中東に行くようになりました」という答えが返ってきた。

 その後、後藤くんは、NHK・BSの国際ニュース番組やテレビ朝日の「ニュースステーション」(現・報道ステーション)などに、ビデオジャーナリストとして出演するようになる。そして、イラク戦争で、本格的に力を発揮し始めた。

 2003年3月20日、米軍は、イラクによる大量破壊兵器の保有(その存在はいまも証明されていない)を口実にバグダッド空爆を開始、地上部隊がクウェートからイラクへ侵攻した。20日後の4月9日にバグダッドは陥落、フセイン政権が崩壊する。5月1日、ブッシュ米大統領は戦闘終結を宣言。イラクは、連合国暫定当局の占領下に入ったのだ。

 2003年12月、後藤くんは我々のところに1本の映像を持ってきてくれた。

 その前の月、後藤くんは、占領下のイラクで何が起きているかを取材するために、イラク北部の都市ティクリートへ入った。サダム・フセインの出生地だ。ヨルダンの首都アンマンから陸路でバグダッドへ入り、そこからティクリートへ向かった。フセインはまだ付近のどこかに潜んでいると言われていた。

 ある日、後藤くんは米軍が襲撃された現場に遭遇。まわりを取り巻く人々の輪から出て、一歩踏み出した瞬間、アメリカ兵に銃口を向けられ、地べたに這いつくばりながら「私はジャーナリストだ、日本のジャーナリストだ!」と叫ぶ。映像には、その一部始終が収められていた。

 同じころ、ティクリート近郊で、車で移動中の日本人外交官2人が並走してきた車に銃撃されて命を落とした。2人はイラクの戦後復興の任務で派遣されており、北部イラク支援会議に参加するためにバグダッドからティクリートへ向かう途中だった。

 占領下のイラクの治安悪化は、日本でも大きな関心事になっていた。

 我々は後藤くんの映像とリポートでニュース報道番組「クローズアップ現代」を作ることにした。彼が撮ってきた映像素材を使い、スタジオにも入ってもらって、イラクで何が起きているかを話してもらおうと考えた。

 ところが、編集がかなり進んだ段階で「フリーのジャーナリストをスタジオに出すな」という指示が上から降りてきた。それまで何度か、後藤くんのリポートで「クロ現」を作っていた。それなのになぜか。

 主な理由はこうだった。

 フリージャーナリストが取材してきたものでリポートをしてもらうと、自分たちは危険な場所へ行かず、フリーに危ないことを押し付けているメディアだと世の中から“見られて”しまうというのだ。

 これにはあきれ返ってしまった。言うにこと欠いて、“見られてしまう”とは。その通りじゃないか。

 悔しかった。取材した人間が取材してきた事実を自ら伝えるのは当たり前だ。それを認めようとしない組織に我が身を置いていることが無性に情けなくなった。そして、こうした現実を覆すことができない自分に不甲斐なさを感じた。

 後藤くんに局内の事情を説明すると、彼はおもむろに「いいんです」と言ったのだ。「僕は、僕が撮ってきたものがテレビに出て、世の中の人に見てもらえればそれでいいんです」と。

 本当に申し訳ない気持ちになったことを覚えている。結局「クローズアップ現代」には私が代わりに出演した。

 後藤くんはその後もイラクの取材を続け、NHKだけでなくさまざまなニュース番組に出演し、ジャーナリストとして大きくなっていく。

 紛争地を取材すると、戦争で人が死ぬとはどういうことなのかを思い知らされる。そして知った以上、責任を負う。十字架のように背負い続ける。後藤くんはそのことをよくわかっていたと思う。

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 後藤くんとは、年賀状をやりとりしたり、会えば「元気?」と声をかけたりするような付き合いが続いた。
 
 2014年の秋も深まったころ、日本人ジャーナリストがシリアで消息をたったらしいという未確認情報を耳にした。そしてそのジャーナリストが「後藤健二」らしいと聞いて愕然とした。後藤くんは、以前から紛争地帯での活動について相談にのっていた日本人の青年がシリアで消息を断ったことから、救出のためにシリアに入ったという。伝手をたどって足取りを調べると、トルコ経由でシリアに入ったようだった。

 じりじりしたまま年が明けた。1月20日、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」がインターネット上に殺害予告の動画を公開した。オレンジ色の服を着せられた後藤くんが現れたとき、居ても立ってもいられなくなった。時間的な猶予があるのかないのかもわからない。ISの要求は、身代金から、ヨルダンで拘束されている仲間の解放に変わった。

「とにかく無事でいてくれ。無事で帰ってきてくれ」 届くかどうかわからないメールを送った。その日の夜中、風の音で目が醒めると、私の部屋の片隅に後藤くんが立っていた。

 後藤くんがISに殺害されたと知ったのは、その翌朝だった。

 国境を越える直前に撮影された動画で、彼はこんなメッセージを残している。

「何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか日本の皆さんも、シリアの人たちに何も責任を負わせないでください」

 この言葉を、いわゆる「自己責任論」として受け取るのは間違っている。

 後藤くんは、自分はシリアの人たちに対して責任を負っていると考えていたはずだ。もっと言えば、イラクの人々や世界中の戦争で苦しんでいる人々に対して。

 後藤くんも、「はざま」で苦悶している弱い立場の人々の姿を伝えることで、戦争とは何かを伝えようとした。子どもやお年寄りなど、いちばん弱い立場に置かれている人たちにカメラを向け、掛け値なしの世界がそこにあることを伝えようとした。

 つまり、生を描こうとしていたのだ。

「格好が悪いし、惨めかもしれない。あるいは見るに堪えないかもしれない。でもそうした現実に目を閉じず、真摯に向き合おうよ」

後藤くんはそのことを、いまもなお身をもって伝えつづけている。そう、私は思う。

(構成/長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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