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湾岸戦争で放送されないとわかっていても「遺体」の映像を撮り続けたこと【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

■“NINTENDO WAR”

多国籍軍の空爆は、CNNによって生中継された。夜空が無数の対空砲火で照らされる映像は湾岸戦争を象徴するものの一つだ。攻撃機から発射されたミサイルや誘導爆弾が標的に命中する様子は日本でも繰り返し放送され、「テレビゲームのような戦争(NINTENDO WAR)」とも言われた。

 なぜあのような映像が存在するのか。それはミサイルや誘導爆弾には先端にカメラが取り付けてあって、目標にヒットするまで映像を送り続けてくるからだ。つまり、「テレビゲームのような戦争」は、攻撃する側から見た戦争でしかない。着弾したあとの姿はテレビ画面に映ることはない。戦争の真の姿は、ミサイルや爆弾が地上に届いた先にあるにもかかわらず。「サージカル・ストライク」という言葉にも強烈な違和感があった。外科手術のように患部だけを叩くなんて、現場を見れば、そんなことを言えるわけがない。

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写真説明)湾岸戦争で多国籍軍のクラスター爆弾の攻撃を受け負傷した様子。イラク南部バスラ近郊の病院で(著者提供)

 2月半ば、バグダッドの住宅街で、多国籍軍の誘導爆弾がシェルター(避難所)を攻撃し、避難していた大勢の住民が犠牲になった。多国籍軍は「地下にイラク軍の秘密司令部があった」と説明したが、内部に入って調べた限りでは、それを裏付けるものは何一つ確認できなかった。 バグダッドに戻ってまもなくのことだった。空爆された現場を取材したあと、知り合いのカメラマンが、Dirty war. と吐き捨てるように言った。確かにその通りだ。でも待てよ、と思った。戦争に汚いもきれいもあるのだろうか? 「汚い戦争」ではなく、「戦争は汚い」と言うべきではないのか。

 シェルターが空爆されたときも、巻き込まれて犠牲になった市民の遺体を映像におさめた。映像を東京に送っても、使ってくれないことは容易に想像がついた。日本のテレビでは、遺体を画面に映すことはほとんどないからだ。視聴者の感情に配慮して、あるいは放送倫理に照らして、自主規制する。それがわかっていても、ひたすら遺体の映像を送り続けた。それがこの戦争の実像を伝えることだと思ったからだ。

 当然、遺体を興味本位で扱ってはいけない。亡くなった人を冒瀆するようなことは、厳に慎まなければならない。しかし、一律に「遺体は放送しない」と決めて、その先の議論から逃げていいのだろうか。

 湾岸戦争の報道では、「ハイテク兵器によるピンポイント爆撃」という言葉もよく使われた。だから市民を巻き添えにしないんだと、米軍は主張した。「サニタイズド・ウォー(Sanitized war)」という言葉まで耳にした。血が流れない、衛生的な戦争だとでも言いたいのか。だったら、自分がいま見ているこの光景はなんだと言うのだろう。

 一人ひとりに、人生があった。戦争はそれをいとも簡単に、容赦なく打ち砕く。そのことを十分に伝えきれただろうか。何度考えても、反省と後悔しかない。

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写真説明)イラク南部を取材中、地元の人がパンクした車のタイヤチューブに空気を入れているところに遭遇。思わず、手伝った(左が筆者/著者提供)

■「雪」は溶ける

 バクダッド市街は空爆で停電していた。夕方になると、取材拠点となっているアル・ラシードホテルのロビーにはろうそくがともる。

 ある日、薄暗いロビーに人影を見つけた。イラク情報省の担当者だ。「日本語を認めてほしい」という懇願をはねつけた、その人物だ。彼の名は、サドゥーン・ジャナービ。情報省の次長として、外国メディアを仕切っていた。

 サドゥーンに最初に会ったのは開戦前の1月6日だった。大柄で、鼻の下にひげをたくわえている彼は見るからに威圧的で、はじめから嫌なやつだなと思っていた。欧米メディアには媚びるような態度なのに、ヤバーニー(日本人)の私はなぜか目の敵にされた。

 サドゥーンは、暗いロビーで、壁に掛かる一枚の写真をじっと見つめていた。何を見ているのだろうかと、なんとなく近寄った。彼は写真を見つめたままつぶやくようにこう言った。

 Old good days!
(古き良き日々……!)

 写真には、戦争が始まる前のホテルのナイトクラブが写っていた。華やかな写真だった。私はなんとなくつられて、「いつかまた、こうした時代が戻ってくるよ」と言った。

「ありがとう」

 そう言って彼は立ち去った。

 独裁政権といえども、戦争の前は情報省の役人として、いい時代を過ごしていたのだろう。写真の中に、かつての自分自身の思い出を探していたのかもしれない。

 フセイン政権下で、イスラム教スンニ派を中心とした支配層以外のシーア派や少数民族は迫害され、人権は無視されてきた。国民の多くは息を殺すようにして生活していた。サドゥーンは国際的な常識や知識を持っていたから、イラクが置かれた現実に思うところがあるのではないかと、容易に想像できた。

 ロビーでの出来事以来、一人の人間としてサドゥーンが気になるようになった。どうやら向こうも同じように感じていたらしく、極端な嫌がらせはなくなった。

 ある日空爆を撮影していたら、すぐ近くに着弾して土煙を浴び、ほうほうの体でホテルのシェルターに下りていった。すると、彼は「大丈夫か」と真顔で心配してくれた。南部のバスラに取材に行って帰ってきたときも、「無事だったか」と喜んでくれた。しまいには、衛星中継でCNNともめたとき、小走りにやってきて、「NHKに使わせてやってくれ」と頼んでくれた。情報省次長としての仕事をしただけかもしれないが、折に触れて、気にかけてくれていることが伝わってきた。

 2月20日すぎ、交代要員が来ることになり、私とファクリはアンマンへ戻ることになった。バグダッドを離れるとき、サドゥーンはホテルの地下シェルターで、薄い毛布にくるまって寝ていた。朝早くて、寒かった。「また来るよ」と言ったら、むっくり起き上がり、「お前は戻って来なければいけない」と言ってハグをしてくれた。私は地上に出て、ファクリと一緒に車でバグダッドを離れた。

 それからまもなくして、地上戦が始まった。イラク軍はクウェートから撤退を始め、2月28日、アメリカのブッシュ大統領は停戦を宣言する。

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写真説明)湾岸戦争をともに取材したヨルダン人カメラマンのファクリと著者。この取材用四輪駆動車は機関銃の流れ弾で被弾。一時、走行不能になった(著者提供)

■戦争取材は「麻薬」か

 湾岸戦争の取材を終えてしばらくたってからのことだが、ある大先輩に、「戦争取材は麻薬だろう」と言われたことがある。不謹慎なことは重々承知しているが、この喩えは当たっていた。一度経験すると、さらに強い刺激が欲しくなる。そして無意識のうちにそこから抜け出せなくなる。つまり正常な感覚が麻痺してしまうのだ。

「戦争の終結を見ることができる者は、戦死した者だけだ」という言葉を思い出す。ギリシャの哲学者の言葉だそうだ。アフガニスタン戦争とイラク戦争を取材したニューヨーク・タイムズ紙の記者が、著書で紹介していた。皮肉な言葉だが、どうすれば戦争というものに本当に終止符を打てるのか。我々は答えを探し続けるしかない。

(構成:長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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