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今さら聞けない…朝ドラ「おちょやん」のモデル、浪花千栄子ってどんな人? 自伝で明かした波乱万丈人生

 NHK連続テレビ小説「おちょやん」で、杉咲花さん演じる主人公、千代にはモデルとなった女優がいる。昭和の名女優・浪花千栄子(なにわちえこ)だ。ラジオ全盛時代の人気コメディ『お父さんはお人好し』の母親役でスターとなり、1973年12月に66歳で急逝するまで、映画やドラマに欠かせない名脇役として活躍した。
 本名の南口きくの(なんこう・効くの)にちなみ、広告に起用された「オロナイン軟膏」のホーロー看板や、やわらかい大阪弁を懐かしく覚えている人はいるかもしれな。しかし、彼女が自伝を残したことを知る人や、まして読んだことのある人は限られているだろう。
 復刊された『水のように』という、半世紀以上前に書かれた浪花千栄子の自伝から、「おちょやん」で上方芸能考証を担当する古川綾子氏が本書に寄せた解説を紹介する。浪花千栄子とは、どんな女優だったのか。そして、どんな人生を送ったのか。

■過酷すぎる幼少期

 1907年11月19日、浪花千栄子は、現・大阪府富田林市の金剛山の麓で生まれた。鶏の行商を生業とする家は貧しく、4歳で母親を亡くし、弟の面倒と家事、鶏の世話に追われ、小学校には2カ月しか通わせてもらえなかった。

 父親の再婚相手から疎んじられ、8歳で道頓堀の仕出し弁当屋へ奉公に出て、衣食住の面倒が給金代わりという最低条件で16歳になるまで重労働に従事した。睡眠4時間という身体的苦痛に加えて、主人から盃洗にたまったゴミの中の飯粒を食べさせられるなど、精神的にも過酷な日々を送った。

 感情を抑圧された生活の中、まばゆい輝きを放ち、少女を一瞬にして夢の世界に連れ出してくれたものが芝居だった。劇場へ弁当箱の回収に行くついでに、花道の揚げ幕や袖から舞台を覗き見た。歌舞伎から新派、新国劇まで、役者の演技に惹きつけられ、帰りが遅いと叱られても、セリフを覚えて、日ごとの演技や演出の違いに気づくほど、芝居に魅了された。

 覗き観る芝居だけを心の支えに下女奉公を続けていると、8年前に別れたきりの父親が金の無心に現れて、吝嗇な主人からわずかばかりの退職金をせしめると、地元の富田林へ連れ戻された。

■自ら芝居の世界へ飛び込んで

 生家に立ち寄ることも許されず、次の奉公先へ向かうと、父親は前払いの給金を受け取り、さっさと消えてしまった。だが、思いやりのある新しい主人のもとで働くうちに、人間らしい心を取り戻すことができたという。

 18歳になった時には、今度こそどこに売られるかわからないと覚悟を決めて、置手紙を残して奉公先を出奔し、やっと自分の意思で人生を歩きはじめる。

 あてもなく京都へ向かい、口入れ屋(職業斡旋所)に紹介されたカフェーで女給として働いた。実年齢より老けてみえるほど、奉公の苦労は容貌に影をおとしていたが、若い娘らしい晴れ着に身を包み、薄化粧をほどこしてみれば、周囲よりも自分が驚くほどに、目元が涼しいモダンな顔立ちの美人が鏡の中にいた。

 迷うことなくすぐにカフェーを辞めて、芸能プロダクションの新人募集に応募すると、すんなり採用されて、別世界だった芸能界で生きていくことになった。

 最初の芸名は三笠澄子という。デビューする前にプロダクションは潰れてしまうが、目をかけてくれていた監督の紹介で、芸術座出身の女優が率いる一座に加わり、京都の第二新京極の三友劇場にて初舞台を踏む。風邪をひいた人気女優の代演でチャンスをつかみ、一目置かれるが、一座は徐々に不入りをかこち、ついにはあてもなく地方巡業へ出ることになった。

 すると劇場の支配人に一人だけ呼ばれて、難関といわれていた東亜キネマを紹介してもらえることになり、期待の新人として迎え入れられた。芸名は香住千栄子に変わり、スクリーンデビューも果たし、順調にいくかと思いきや、会社の不当な人員整理に強く反発して、自分の立場は保証されていたにもかかわらず、辞表を叩きつけて退社してしまう。

 その後、市川百々之助プロダクションに移籍した際、自分で考えて浪花千栄子に改名した。さらに帝国キネマに所属してから、フリーで映画や舞台に出演するようになり数年経った頃、最大手のプロダクションである、松竹から声がかかった。

 1930年8月、浪花座の「第一劇場」の公演に参加して以降は、松竹専属の女優として「新潮座」「成美団」など関西新派の舞台に立ち、翌年6月から、第二次松竹家庭劇に新メンバーとして参加することになった。25歳のことである。そのころ彼女は中堅女優になっていた。

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■結婚、離婚、そして女優としての飛躍

 入団後まもなく、座長の渋谷天外と結婚した浪花千栄子は、座長の妻として「いっしょうけんめい、この20年間、一座のために奔命」したと述懐している。かげひなたなく座員たちの面倒を見ながら、ほかの女優が嫌がる役を率先して引き受け、もう1人の座長である天性の喜劇人・曾我廼家十吾との緊張感に満ちた舞台から多くを学んだ。

 戦後、天外が周囲の反対を押し切り、松竹家庭劇を辞めて自分の劇団「すいと・ほーむ」を旗揚げした時も、だれよりも天外の才能を信じていた浪花は、迷うことなく行動を共にして、松竹から離れたことによる苦労を分かち合った。

 1948年11月に渋谷天外は松竹に呼び戻され、翌12月には、戦前の松竹家庭劇に曽我廼家五郎劇が吸収されるかたちで、松竹新喜劇が結成された。

 晴れて上方喜劇を代表する劇団としてスタートを切った矢先、愛人との間の子どもができた天外から離婚話を突きつけられた。かわいがっていた劇団の若手女優が相手だったことにも深く傷ついたが、それでもまだ劇団を辞める気持ちにはなれず、芝居さえ続けられるのならと劇団に残ったが、別居生活が1年経過した頃、松竹新喜劇の見せ場ともいえる丁々発止のアドリブを天外が避けるようになったことから、退団を決意した。

 結果として、松竹新喜劇を離れたことが女優・浪花千栄子の飛躍に繋がったことは間違いない。凛とした女主人からやくざの女親分や下品な老婆まで幅広い芸域を誇り、関西弁ではない役もこなしたが、関西を舞台にした映画やドラマに欠かすことのできない女優といわれた。豊富な舞台経験は、小津安二郎、溝口健二、黒澤明などの名監督からの信頼も厚く、溝口監督の『近松物語』で主演をつとめた香川京子や、豊田四郎監督の『夫婦善哉』の主演女優・淡島千景などは、監督から依頼を受けた共演者の浪花から、方言指導だけでなく立ち居振る舞いなども親切に教えてもらったと、感謝とともに語っている。

■浪花千栄子の「芸」とは

 テレビの台頭を直接的要因として、1970年代以降、映画産業の斜陽化に拍車がかかり、浪花千栄子の活躍の場もテレビに移るが、関西地区で最高視聴率38%を記録した人気ドラマ『細うで繁盛期』に主人公の祖母役で出演するなど、晩年まで仕事には恵まれた。

 亡くなる2日前の夕方、「しんどい」と言って横になり、京都嵐山の自宅で静かに息を引き取った。浪花をよく知る人物として、元夫の渋谷天外は各紙の取材を受けており、朝日新聞の追悼記事には、「芸人が死ぬときは、いつもはかないものです。あの人は、自分の芸を大切にして人にあげようとしませんでしたが、とうとうその芸も過去の世界へ行ってしまった」とコメントを寄せ、余人をもって替えがたい演技を惜しみつつ、その人生を儚んだ。

 幼少期のつらい体験と、女優として歩きはじめた頃の平坦ではない道のり、20年の歳月とともにはぐくんだ家庭と劇団に追いやられた絶望の淵から、自分の力、女優としての「演技」だけで這い上がり、名助演女優と称賛された浪花千栄子。

「芸」だけが彼女を裏切らず、だれも彼女から奪い去ることができないものだった。天外はその「芸」が肉体の死とともに「過去の世界へ行ってしまった」と審判を下しているが、果たしてそうだろうか。約半世紀を経てもなお、不朽の名作映画の中で唯一無二の存在感を放ち、忘れられない女優として生き続けている。そして、喜びよりも悲しみに翻弄されたその人生までもが、いまあらためて関心を集めていることには、浪花千栄子本人も驚いているのではなかろうか。

(文/上方芸能研究者・古川綾子)


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