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米軍に奪われた土地に苗木を…反基地運動の草分け的存在・阿波根昌鴻さんの教え【ジャーナリスト・柳澤秀夫連載】

■阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんとマクマオウの苗木

 地元紙の記者と付き合っていると考えさせられることが多い。

 私が沖縄にいたころ、琉球新報と沖縄タイムスは、米軍に関するニュースを競うように大きく扱っていた。一面ぶち抜き、ベタ白抜きでどーんと展開する。「住民の怒り」を強調する見出しが多かった。読者の感情と一体化したような見出しは、全国紙ではあまり見られない。軽い気持ちで、「あの見出し、ちょっとやりすぎなんじゃないの?」などと言おうものなら、「ヤマトンチュはわかってない!」と𠮟られた。

 彼らは、沖縄が本土に復帰する前から、言論機関として米軍と対峙してきている。

 沖縄の人たちが強制的に土地を接収されたり、米兵による犯罪に泣き寝入りさせられたりするのに対して、一緒になって怒り、闘ってきた歴史がある。本土の新聞とは違う思いで紙面を作ってきたのだ。

 彼らと話すうちに気になり始めたのが、阿波根昌鴻さんという人だ。沖縄の反基地運動の草分け的存在である。

 阿波根さんの住む伊江島に、会いに行った。

 阿波根さんは当時、すでに80歳近かったが、とても元気で、麦わら帽子をかぶり、穏やかな笑顔で迎えてくれた。

 伊江島は、沖縄本島北部、本部半島の沖に浮かぶ離島である。島の西側が米軍の飛行場と演習場(射爆場)になっていた。

 射爆場は、訓練が行われていないときは、立ち入りが認められていた。私が訪ねたとき、阿波根さんは施設の中に入って海岸沿いの一角にマクマオウの苗木を植えている最中だった。マクマオウは沖縄で防風林として使われる樹木である。そこは阿波根さんの土地だった。

 伊江村の真謝・西崎両地区は、1955年に、米軍によって強制的に接収された。住宅がブルドーザーで引き倒され、火を放たれたという。

 土地を奪われた人々は困窮した。阿波根さんたちは窮状を訴えるために、那覇から最北端の辺土岬まで、沖縄本島を半年かけて歩いた。「土地を奪われた農民は、乞食になるしかない」。阿波根さんたちの行動は「乞食行進」と呼ばれた。

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写真説明)阿波根さんは、伊江島を初めて訪ねた筆者に、復帰前の反基地運動の様子を丁寧に説明してくれた(著者提供)

 私が沖縄に赴任したのはそれから20年以上たったころだったが、阿波根さんは一貫して土地を返してほしいと訴え続けていた。1973年に『米軍と農民』(岩波新書)という本を執筆し、ここに粘り強い闘いが記録されている。

 どうしてそこまで土地にこだわるのか。こだわりの原点はどこにあるのか。それが知りたい。

 私も阿波根さんと一緒に射爆場に入ってマクマオウの苗木を植えた。米軍も黙っていない。数日すると苗木は引っこ抜かれた。すると阿波根さんはまた植える。また引っこ抜かれる。また植える。

「諦めたら負けだよ」 阿波根さんは、やさしいもの言いで、そう話してくれた。

 話をするうちに、阿波根さんにとって、土地を守ることは生きることと同じなのだ、と考えるようになった。反基地闘争というような定型の言葉におさまるものではない。阿波根さんは、当たり前に生きることにこだわっているだけなのだ。人間にとって、自らの生活の糧を得ることがどれほど大切か。それを阿波根さんに教えてもらった。

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写真説明)1980年11月30日、沖縄の反基地運動の草分け・阿波根昌鴻さん(左)と、米軍射撃場の中にマクマオウの苗木を植える筆者。この場所は、もともと阿波根さんの土地だった(著者提供)

 沖縄で米軍の支配が始まり、あちこちで土地を奪われていったころのことを私は知らない。だから、それを目の当たりにしてきた阿波根さんが自分の中にどのように刻み込んできたのか、聞きたかった。

 そういう思いと丁寧に向き合うことが、我々メディアの仕事の原点ではないのか。

阿波根さんは2002年に亡くなった。「諦めたら負けだよ」。私はあの言葉をいまも胸に深く刻んでいる。

(構成:長瀬千雅)

注)番組名、肩書、時制、時事問題などは、本執筆当時(2020年3月時点)のものです。

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