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信仰・侵攻・親交

 友人に「宗教に関する本について、お勧めがあれば教えてほしい」というありがたい問いをいただいた。改めて私の〈宗教観〉とは一体なにが礎になっているのだろうかと考え出したら実に纏まりを欠いていた。とりとめのない雑記に至るが、改めてここに開陳してみる狼藉を働こうと思う。
 結論としては、私は「宗教人」ではない。特定の信仰OSがインストールされた思考回路をもつわけではないし、特定のカミに祈るわけではない。私は宗教・神仏に対して語る言語を持たない。そのことをある程度、劣等感コンプレックスとして内在している。ゆえに、なにかの宗教に対して祈りを捧げる人たちに対して、半端な立ち位置でこのようなトピックを扱う無礼を許して欲しい、という甘え感情を駆動させて、以下、所感を綴りつつ、お勧めの本や訪れるべき場所を挙げてみる。

1.永平寺および北陸の文豪・哲学者たちに係る〈禅〉

 私が心理学科でユングやフロイトのことを学ぶ際の教授が当時傾倒していたのは、今よりも少しマイナーな立ち位置にその身を置いていたマインドフルネス瞑想であった。十牛図や曼荼羅の思想を知ったのは、ユング心理学の延長線上のことだった。講義のはじめには瞑想をやらされた。
 私にとって精神分析Ⅱの講義は、エヴァンゲリオンと鈴木大拙、ジャック・ラカンを知るためのゼミナールだった。
 足繁く通った金沢21世紀美術館の傍ら、ついでに足を伸ばした鈴木大拙館と西田幾多郎記念館。滝や海に行くように、暇つぶしで訪れた永平寺、水上勉記念館(若州一滴文庫)。これらの場所は崇高な思想で選び取るでもなく、ただの気晴らし、日常の延長線上で訪問する娯楽プレイスの一種であった。
 なるほど禅というのは実に「切断」であり「肉体優位性」で「ナンセンス」、ゆえに日常とよばれる世界がただのオルタナティブに過ぎないことを実証してくれるライフ・ハックだーーということを、じわじわ飲み込んでいく日々を過ごした北陸の生活が、思考のバックボーンになっていることは間違いがないだろう。

 18歳をこじらせた自己顕示欲のバカに、特効薬というわけにはいかないまでも、禅の思想は効く。当時付き合っていた人間に「お前は禅の思想がどうとか曰うくせして全く自分の衝動性を制御できていないじゃないか」と苦言を呈されたことがあるが、それでもずいぶん、過剰で溢れるあの時代において、私の呼吸をしやすくしてくれた。言葉とは、本質的にどこまでもナンセンスだし、思考は、呼吸によって鑑みれば、夕凪の水面のように静かなものであるという状態を見出すことができるし、「自我」というのを規定するのもまたべつの宗教の一派に過ぎず、どちらかに正誤の軍配が上がる質のものではない。

 ということで、ぜひ北陸旅行を。金沢周辺と永平寺の北陸信仰ツーリズム、クルマの運転手とおしゃべりつき1泊2日のツアー、奮ってご参加ください。お問い合わせはツイッターのDMでもこの記事のコメントでも、なんでも。どなたでもご予約お待ちしております。

2.精神分析学

 10代後半から20代前半にかけては、精神分析と禅の差異について頭を悩ませた時期だ。フロイトを父として歯車を回転させる精神分析学は、エディプス・コンプレックスをはじめとする「性」にまつろい発展してきた学問である。
 禅は「性」を切り捨てる。欲望をすべて副作用とする。私にとって禅とは、欲望が副作用する前に飲んだ物質を、きっぱりと断薬するような性質をもつものだと認識されていた。性愛とは、別つべきひとつのファクターにすぎない。
 だが、精神分析と禅のそれぞれが出力する結論には奇妙な類似が見られた。私は各々から、自我を規定せず、意識や意志に重要性を持たせないという行為の重要性を受け取った。これはいかがなものだろうか?

3.白山信仰

 禅について想いを膨らます傍ら、禅定道をもつ白山および白山信仰、白山登山に関心を持った。白山登山は北陸の若者にとってポピュラーな通過儀礼であったという常識を、2世代上の人間たちはみな持ち合わせていた。身体を動かすことは苦手だし、登山なぞ小学生の遠足で懲り懲りではあったが、友人を巻き込んで挑んでみた。
 さなか、「友人の命が脅かされているかもしれない」という危機的状況に遭遇した。あの焦燥感と、藁にもすがる思いの「祈り」、それに対する肉薄したリアリティ。暗闇の中おぼろげに赤い、山頂の白山神社の鳥居に向かって、「無事で」と願うことしかできない、この身のちっぽけさといったらない。
 圧倒的なネイチャーの中では人間はこうも無力である。おそろしいほど爛々と輝く秋の星座たち。ぬばたまの闇夜。ざわめく生命たちが呼吸をしている気配。脳を発達させたピテクスのためだけに整備されたはずのない、濃厚な空気。この両手では抱きしめることの叶わない膨大な世界、そのほんの一部。ごくわずかなそのピクセルを、他でもないこの私が占めているという、混乱、混沌、それをそのまま受け入れてやってもいいという安堵感。なるほど、自然を信仰するということ、山岳を信仰するということはこのようなマテリアルをもつのか。幼い頃に遊んだ白山神社の境内と繋がる。あの鳥居はこの広場および、この信仰へと導くワープゲートだったのだ。
 人は窮したときに神々へと祈る。自然に両手を合わせる。あのポーズをとったときの、人間という生き物の落ち着き方は一体なんなのだろう。

 沖縄本島・八重島列島を訪れ御嶽巡回した際に感じた自然に対する畏怖も、おそらく、山岳信仰に近しい感情を想起するのだろう。環境という文脈が身近な信仰を規定する。

 それから島原で見た教会群。土地に根付いた信仰のかたちを、旅の道中で見つけにいくのが好きだ。遠藤周作と地元の語り部が述べるイエス・キリストとマリア様のこと。地元の人が語る「責任」と「負い目」。私が感銘を受けつつ認知する「余所者」「ツーリスト」であるという客観的視点。
 土地の風土と信仰のありかた。共同体を維持する信仰。歴史的にこうなった、という事後承認。ううん。日本中にある信仰の形と、それらを今もなお維持し続ける無意識領域、私とは異なる言語を喋る人たち、それでも通じる「言語」の柔軟性と都合の良さ。知らない土地の地蔵堂で山頭火なんかの句碑を眺めてみる、あの時間の快さ。まだまだ見つけに行かないとな、信仰。

4.トランス

 さて、正社員時代の尊敬する元同期は瞑想とTHCによるセッティングで高次の精神統一を図ることを日課にしていた。
 トランス体験を媒介にして共同体の結束を高める民族の存在を説く彼の瞳は、ジャンキー特有の熱気と理性を宿した冷気が溶け合い、交互浴のような脱力感をもたらした。曰く、われわれが永続させてきた祭典は、法に触れるのみのパーティにあらず。日常生活とは異なる場所に心身を置き、ある種の気晴らしに興じること。これは、人間の生活にーーどのような形をとるかの差異はあれどーー必要不可欠である。
 カフェインとニコチンでチューン・アップした彼の部屋で、さまざまなドラッグでトリップしてきた彼と世界のことを語り合った夜は、おそらく私に芽生えかけていたある種の信仰観に対して、多大な影響を与えた。

 やはりこの世界のもつ形相は、「認知している世界のひとつ」にしかすぎない。別の言語をもつ世界へ、物質や儀式を持ち込めば、ビザやパスポートを取得せずとも、身ひとつで悠々自適に旅立つことができる。
 この苦しい世界は「絶対」ではないという救いは、おそらく険しい修行と研鑽の果てに訪れることができる崇高な領域なのだが、ひときれの物質や一端の祭典によって、我々の身にじつに飄々ともたらされる。
 かつ、あの領域では神に祈りやすい。仏像を眺めて「わかる」ということが、言語という〈法〉を介さずにやってくる。
 色々な薬物を飲んだときの、色々な種類の多幸感と、色々な角度の贈与感と、最終的に辿り着く「ありがたさ」の広場では、おそらく、毎日電車に乗って職場に遅刻せずに通勤するといったことや、ボーナスが出たから新NISAを活用してアメリカの投資信託を買うこととか、周りの友人が結婚していき、インスタグラムの投稿が赤子の写真まみれになってきたこととか、でかく赤色の数字の優位性が通用しない。やはりここでも、目の前の現実がいかに平行世界のひとつでしかすぎないという気づきによってつながり出すシナプスのことを強調したい。

 あのとき目前に現れた白く完全な球体にもう一度会いたい。だが、あれはもうあの場所にはいない。正しくは、あのときあの瞬間のあの場所にしかいない。再び会えることがあろうと、もう、そのものの形はしていない。私の望むカタチとして現れないことなんか、火を見るより明らかだ。そしていつも、失ったあとでことの重大さに気づくように、事後承諾の形をもって現れるから、この願いは永遠に叶えられることがなく、かつ、それでいい。

5.〈言語〉

 私は私の姿を、私のまま見ることはできない。はじめに鏡があり、いまはあなたの瞳に映った私像を見ている。これは、説明するまでもなく、ラカンが唱えた鏡像段階説のざっくりしたあらましだ。

 不在のあなたに名前をつけて、不在のときに名前を呼んで耐えられるようにして以来、私は言葉の奴隷である。私が言葉を用いるのではない。言葉が私の輪郭を作る。私はあたかも花粉を運搬するミツバチのように、言葉の生殖のためにあちらこちらをうろつきさまよう。もう私は、言葉という法律のない世界で呼吸をすることはできかねる。
 私を使役して膨大に分裂していく「言葉」というものへ、私が抱く八百万のカミへのそのもののごとき畏怖と絶対視。私は彼らには勝てない。どこまでいっても掴みかねる、実体を伴わない空虚な容れ物に、一喜一憂、瞬間が根こそぎ奪い去られていく。「今」に名前がつき、「過去」に言葉が与えられ、「未来」を語ることができるとき、そのものの「ナマの実感」は空洞になり、言葉を知る前に「知っていた」ことのことを、私は永遠に知り得ない。
 ああ、そうだ、「大文字の他者」がこちらを見ている。私を、他者を、社会を、権力を、歴史をすべて知ると仮定することによって成立する、性質の体現化としての、大文字の他者が、こちらを見ている。きっとあなたのことを今は「宇宙」として仮止めしているのだけれど、完全に「宇宙」ではないこと、それ以外のことはうまくわかることができない。

6.まとめ

 どうやら、カミと呼ばれるものーー私という一個人のことを全て理解すると仮定されうる絶対的な他者、大文字の他者は、存在するとしてみるという決意によって、執着や自己嫌悪、期待や絶望を拭い去る。「基本的に、この世は私ではないものの想定した法則性に則って〈法〉の整備がなされている」という諦念は、自意識や欲望が駆動させる苦しみを幾分マシにしてくれる。
 永続に困難を伴うこの精神状態は、ゆえに、ルーティンとしての儀式めいた行いによって、継続するという努力を払うことができるのだろう。宗教の儀式。毎日のおつとめ。カミははじめは、絶望的なこの世界に、甘い救済の蜘蛛糸を垂らしてくれる。だがいつかそんなものは、交通系で買えるポカリスエットと同等の地位までそのレアリティを下げるだろう。それでも、と、その冷笑にめげずに毎日床に雑巾がけを行うとき、いつかはそういった日々の果てに、光が与えられるのかもしれない。

 何度も申し上げるように、私の中には具体的に、祈るべきカミも、継続させるべき習慣も持たない。そのことについて、劣等感を抱けど、私の平凡な人生にはまだ邂逅のときは来ない。

 改めて考えてみたものの、やっぱり私は、信仰のことについて何かを語り得るほど当事者ではない、という再確認以上の部屋に入室することは叶わなかった。友人に教えを説くとしたときに効果的な、強い語尾の議論はこの身に持ち合わせていない。やろうと思えば目の前のコメダコーヒーのソーサーにだって神性を見いだすことだってできるけど、そういうことができるのは、きっと、唯一にひたむきに心身を捧げているからではなく、かつ、宗教の本質とはここだ。
 心身を余すことなく捧げる、無我の祈り。御嶽の片鱗に触れれど、白山のてっぺんでモノリスと記念撮影を取れど、港町の教会でやわらかな日光に包まれようとも、なんらかの物質を摂取し束の間の非正気状態に陥れど、まだ、まだそのときではないという違和感が到来するのみ。今のちっぽけな私には、来るべきその時を待ちながら、他者の話に耳を傾けることしかできない。

 あまり宗教おすすめ本という感じになりませんでした、申し訳ないね、友だち。ついでみたいであれだけど、以下、多分好きだと思う、さくっと読める感じで。よかったら今度貸すね。


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